古代史教養講座創立:1995年

 

◆古代をこの視点から見たい
私達が知っている日本の古代像は、戦後は占領政策の影響で空白だし、戦前は疑問の多すぎる皇国史観の記憶だけです。
そして考古学的な発掘ニュースは、連日のように報道されます。
しかし出土情報だけでは、負けた側の王や、不当に討伐された原住民の側の人々が、信じている神名に託した神話と伝承は、頭に浮かんで来ません。
これでは、後輩や子供や孫に、国土や国家の誇るべき姿や、国家成立までの苦闘などを、語ってあげられません。
この会では、西の果て・中近東の古代を語った旧約聖書時代に、人々が話していたシュメール語と日本語の語順が、遠隔で孤立した両地なのに、どうして同一なのか。それからお話しています。
それは、古代人達の驚くべき移動距離だったり、技術と神々を携えた古代エリートの開拓精神や、サクセスストーリーでもあります。
一方、遠隔移動を迫られる事情には、気象条件の激変や、敗戦で浄化される恐怖が多いようですが、それは日本にとっては渡来人の大波になった訳でした。
日本列島へは、何波もの渡来民族や勢力が来て、持参した技術を有難がられたり、抵抗戦に遭遇したり。縄文人と、渡来の古来(フルキ)と今来(イマキ)は、次第にミックスしました。考古出土物に、はっきりと出身地色を残しながら。
日本の古代には、渡来が日本列島に及ぼした影響で、方言アクセントや味覚の嗜好や、九州・出雲・東国・東北など非関西弁圏が、どんな経緯を辿ったのかを、この会では重視しています。
同時に、天皇家とそれを取り巻く階層が編纂した史書の言う通りの、萬世一系の王朝でもなさそうだと思っています。
この疑問を解明するため、学界の定説に逆らってでも、渡来勢力が王権交替に介入した史実追究には熱心です。
楽しくお読み頂ける解説を目指しました。どうぞ、ご通読ください。
◆縄文人と弥生人は別民族か
何しろ有史以前に、何回もの氷河期を経験し、その度に寒冷に耐性のできた種族だけが生き残ります。地球海面の海退の結果、陸続きになる日本海・宗谷海峡を渡って、氷河の無い日本列島へ移住して来たのです。
日本列島には黒潮に乗って、南海人も断続的に渡来しました。アイヌ人の遺伝因子DNAは沖縄県人と同じ南方系です。では日本人とDNAが同じとされる、パイカル湖一帯のブリヤート人は、南方系でしょうか北方系でしょうか。
まえがきで触れた、中近東の古代人の東への移動経路は、中央アジア・シルクロード経由と南海経由に分かれます。それは、鉄の武器・農工具や、自然と神への怖れ・信仰の伝播経路に、オーバーラップしているようです。
ケルト人は現在の北西ヨーロッパ人の祖先ですが、紀元前1世紀頃・シーザーのガリア戦記にも出て来る人々で、中近東人と違う森林の民です。
この民族は鉄を持ち、天が落ちて来るのを怖れた巨木信仰、そしてアニミズムでした。
縄文とか弥生などの名称は日本だけの用語で、国際用語は旧一新・石器時代です。今迄の所は縄文人についての入口ですが、氷河期の中間は温暖期になり、本州の北端と、日本海側と、諏訪湖など高地が最適温だったらしく、遺跡が発掘されています。
そこに共通するのは、水辺の集落で、巨木柱列、漆の文化です。さらに食品に栽培稲・粟・稗・栗があって、開始期は今から6000年~14000年前へと遡りつつあり、漁労と採集だけの原始生活だったとする学説は一掃されました。
鮭は川に溢れ、木の実も充分採れた温暖な東日本に較べて、西南日本は暑すぎたから遺跡も無いのだ、と思われていた処へ、本州南端の薩摩では、なんと9500年前の遺跡が発見され出しました。
こうなりますと、採集が縄文で、稲作は弥生などの区別名称は、実態にそぐわなくなって来たようです。
事実、豊穣で弥生に近い文化レベルだった東日本を紀元前の寒冷気象が襲い、人口激減と生活水準が急落し、リストラに強い縄文人だけが、西日本へ移動して弥生人になって生き延びたのでしょうか。それ程、弥生の生活用具には、生活に追われたような、無表情で貧しい美意識しか見られません。
涼しくなって適温の西日本は人口過疎でしたから、海洋渡航を厭わない南海や南支那・朝鮮の人々が見逃す筈もありません。
扶桑と言う語は、一種の極楽・新天地を印象づける、渡来民(難民を含め)の動機づけ標語にもなったようです。
渡来の大波が始まる迄の数千年間に、東アジアの大陸各地で起こっていた史実は、時間をかけ資料も提示しながら、ゼミで詳細にお話をしています。
この会の特色は1が渡来、2が製鉄、3がゼネコン(大公共工事、古墳や治水等)、4が物流です。地域はオリエント、ユーラシア、東アジアと視野を拡げています。又史実の側面を重視しています。
他の古代史会やカルチャーセンターに比べて、ユニークなのは会員主体の講演で、ポイントに、外部講師を入れて自由で多彩な発言に溢れているところでしょうか。
◆渡来人と原住民が住み分け
世界の古代史で、未踏の密林でもない限り、太古から別種族の侵入や交配が無かった地域などありません。
でも、共通のパターンは北の獰猛種族に侵入され、男性を皆殺しにされる浄化が怖くて、一族全員が逃亡移動する「追立て」の結果、超遠距離を移動する経緯です。
日本列島へ大挙渡来して来た東アジアからの種族の背後には、追い立てている種族の存在があります。日本列島から先へは逃亡できる余地が無いので、否応なく死ぬか服従かです。
どの種族でも獰猛な一面を持っていますから、勝因は新鋭武装であった筈で、より良質の鉄供給を見落せません。
ずっと以前に夏(カ)の次の殷(商)を滅ぼした周の場合は青銅、楚を滅ぼした秦の時は鉄が武器でした。
大陸大乱の度に、倭と言われていた日本列島へも難民が短期間に大量渡来していたようです。
それが残した証拠の一つが言語です。
日本語は膠着語なので助詞を要しますが、中途半端なのもあります、そして中国語や欧米語を順行式語順、日本語は逆行式の語順とされています。
でも、相撲に残っているカイナ・腕は、語順の点では中国語式、つまりカイの次にナ(君と私と混用の代名詞)が来ます。これは日本語の語順どおりならナカイでよい筈なのに、と言う訳です。
日本語はウラル・アルタイ語系と言われますが、南方の言語にも日本語式語順の国が結構あります。
もう一つ、日本語には漢音と呉音があり、数を数える時も、ヒイフウ・ヒトツフタツとイチニイがあり、イチニイは呉音〈中支と南支)で今も通用しますが、ヒイフウは出典不明のようですね。
漢音と呉音はすっかり全国で消化されていますが、溶け合わなかったのがアクセントです。
地図上に関西弁アクセント圏と東京弁アクセント圏を明示するため、大研究をした学者がいます。
糸魚川や長良川・木曽川の両岸と、播磨と備前の境や、丹後と鳥取の境では、アクセントがはっきり変わります。四国と紀伊半島は関西弁アクセント圏です。
言語学会ではないので余り追跡しませんが、語順やアクセント圏が分れるような史実が、実際にあった結果、そうなっているのか。むしろそれをゼミで詳しく解説しています。
それが渡来人と原住民の住み分け、日本人論の最重要部分です。
ところで、耳慣れない天皇かも知れませんが、崇神(スジン)天皇と応神天皇と言われる二人の大王は、100年ほど間隔を置いたAD350年~460年頃(古墳時代)の渡来大王です。
日本書紀は年代で、崇神をBC50年頃の人として遡らせ、応神はAD270年頃の人として事実よりも遡らせました。遡らせる操作を加上(カジョウ)と言います。
なぜ、そんな手の混んだ加上操作が必要だったのかと言いますと、大和王権の始祖王・神武天皇の即位を、BC660年に設定したい政治的判断に縛られて、順送りに寿命を延ばし加上操作を繰り返し、なお足りない年度には架空の人々(10名以上?)を挿入充当したようです。
実際の崇神は伽耶カヤ(現・韓国慶尚南道)から。
応神は百済クダラ(現・全羅南道)から渡来して、倭と言われた日本列島の中枢エリア・大和王権に入り婿の形で大王位を継承しました。
日本書紀の期待に反して、出土考古遺物は正直です。大古墳の築造は、崇神から始まって応神で最盛期、大化改新後まで続きます。
平成15年5月に歴史民俗博物館が弥生の開始時期を、C14の測定でこれまでより500年古く、BClOOO年頃と発表し学界に衝撃を与えました。
又、古墳時代の開始もこれまでより、50-100年遡り、3世紀前半が有力になりつつあります。
つまり、卑弥呼の邪馬台国の時代が古墳時代となると、大和の箸墓古墳が卑弥呼の墓だとして、近畿説諭者は、色めき立っています。今後、古墳の年代比定が議論になりそうです。
古墳時代の画期は崇神王朝、応神王朝、継体王朝で、倭を全国王権に成長させ、紆余曲折の結果、律令政府が成立して現天皇家に継続したと思われます。この渡来王の解明こそ本講座の重要論点の一つです。ご期待下さい。
卑弥呼の該当者創作で大詐術
現代人は邪馬台国と卑弥呼を誰でも知っています。しかし戦前の中等教育では全く教えてもらえませんでした。先生も知らなかったようでしたから。
古代に限らず歴史とは、政治権力の思惑一つでどうにでも出来る証拠の見本みたいですが、紀元(AD)240年頃の出来事で、魏志の東夷伝・倭人条に記載された史実を否定する現代人は一人も居ません。
ところが、その史実を記載した日本の史書は一つも無いのです。だから戦前は触れなかったのでしょうか。
日本書紀の初版は卑弥呼より480年も後世の奈良時代でした。でも、編集者は卑弥呼を熟知していて、それらしい該当者を日本書紀の中に記述しようと、苦心の創作に取り組んだらしいのです。
該当者の候補は天照(アマテラス)大神と、大和・箸墓に埋葬されている女王だったようですが、大和王朝を創立した神武天皇の即位年を、政治的配慮でBC660年もの大昔に設定してしまったので、このお二人は候補から外されたようです。
卑弥呼が貰った親魏倭王の金印は、見たことも無かった大和王朝でしたが、卑弥呼は当時の国際的な知名女王でしたから、その直系になりすましたいのは山々だったでしょう。
金印もそれらしい該当者も見当たらない律令政府が編纂した、日本書紀・初版当時の記述には、従って記載が無かったように思えます。
それに結末を付ける解決策・妙案は、大和から京都・平安朝に遷都して後、桓武天皇の時代まで持ち越されたようです。
解決策の恐るべきアイデアは、とても此処では書き尽くせません。会の定例ゼミで何回分もの説明を要するテーマです。
とにかく、邪馬台国の国々探し、と言うような素人っぼい思い込み捜索で、何時までも歳月を過こす事は、この会では致しません。
その代わり、史学界もお手あげの卑弥呼役の該当者問題には、確固とした見解があります。
この講座で出した見解は、日本書紀の解決策が、悲しくも可笑しい創作で、奇想天外の詐術としか思えないものだと言うものです。つまり、現在市販の日本書紀は、桓武王統の都合で根本から書き直し済みの史書なのです。
史書が解決策に登場させた神功(ジングウ)皇后は架空の創作で、その息子役の応神天皇は、実在年より240年も昔の人にされているのです。
それは、卑弥呼が在位したAD240年代に合わせるための操作でした。それが判明したのは、数点の発掘出土物が真実を告発し出したからでした。
日本書紀は、近畿政権の新王朝となった継体天皇を、応神五世の裔にし、現皇室の祖とされる事にします。この操作で、不倶戴天だった応神系と継体系の仲は円満解決しました。
卑弥呼役の創作挿入と、応神240年遡らせ、二つが大詐術と言う訳で、その解説はゼミでも最高の聞き処です。
つくづく思うのは、卑弥呼の呪縛に引き回されて来たのは、日本書紀の撰者ばかりではありません。明確な見解を持たないのなら、現代人とて同様です。
◆神裔と鬼裔にされた人々の話
現存唯一の官撰史書・日本書紀冒頭に、天地開闢の神として国常立尊(クニトコタチ)、国狭槌尊(クニサツチ)、豊斟渟尊(トヨクムヌ)を掲げています。
この神々は縄文人達の薄れかかった記憶で、なお無視し切れなかった伝承を、日本書紀編纂時に、天皇家・萬世一系の傍証として記載してあるように見えます。
ところが、豊斟渟尊の実際の発音はボシントイで、パイカル湖一帯・ブリヤート族伝承の鉄鍛冶神の名なのです。つまり、北廻りに東北へ渡来して、陸奥に独自の製鉄王国を経営していた人々の神と同一神格です。
平安初期に反抗独立戦で滅びたアテルイ・悪路王とか安部氏は、豊斟渟尊とは別種ですが地盤は継いだ人達で、鬼として卑しまれます。
一方、同じ縄文期から南九州・薩摩や肥後・日向に居た種族の土俗神は、東支那海や南支那海の龍神的な航海と潜水漁の神々だった様子が、現在も媽姐信仰に残っていますが、部族全般は後続の渡来勢力に服従同化して行きました。
これ等の神々を僻地へ追い立てた渡来人は、史書に自分達の神々を残せる勝者になって行きます。
ですが、元来が多神教でアニミズムの森林の民ですから、巨磐や巨木に神性を感じていた処へ、仏像導入の葛藤に際して、人も神に昇格させる必要に迫られたのでしょう。それ以前に神となった人は、ケルト人と同様、倭人社会には居なかったようです。人は人でした。
神になれた人は余程の偉人か、凶悪で拝まないと崇りそうな人です。
で、追い立てた渡来人の話ですが、渡来の神々にも新旧や等級があったようです。鋼鐸信仰の人々を統括した古い渡来神の猿田彦や、熊信仰の人々の渡来神は、神にはなり切れずに、被征服族として史書の裏面に隠されて行ったのでしょう。
日本人にとって、天孫降臨と表現されている渡来神達は無視できません。その神名中に出ている文字に、その神の素性や職種や系譜を、探し見分ける知的興奮は格別です。
天孫降臨の神話に残された人々の中で、素佐之男(スサノオ)尊・饒速日(ニギハヤヒ)尊猿田彦は、邪魔だと思っても消せない程の先住大王でした。講座はこの人達の正当な評価と名誉回復をも、大事な事と思っています。
天孫降臨とは、対馬海峡原郷の天アマ(阿毎・海)の統率女王が、大陸北方から南下した製鉄技能族の?カイ〈扶余の別派で高(コウ)氏)と合流して、九州での隙間地帯・日向に渡来し、地元勢と融和しながら定住に成功した物語です。
渡来に合流した高氏を始め、当時の神々の名を検証しますと、これ迄どうしても不明だった皇統譜の姿が判然として来ます。
日向三代と言われる時代の事で、日向を出発して近畿へ東遷した神武天皇達の一団は、その一族でしょうか。
日本書紀は、神武軍を督戦する軍監役に、大来目(オオクメ)軍を率いた日臣(ヒノオミ)命(大伴氏の遠祖)を記述していますが、来目は熊本の人、日臣は肥後の肥=日です。
卑弥呼を苦戦で死亡させた狗奴国は、神武軍を統率する位置になっていた、そう日本書紀が告白しているみたいです。
こんな所にも、狗奴国の後身と見られなくもない、九州王朝が暗示されているようです。
天孫降臨の女王が、天照大神なのか卑弥呼なのかは、興味本位に推量すれば何とでも言えますが、同時代かどうかさえ、推察の範囲を出られません。
この意味で、卑弥呼が魏から授与された銅鏡百枚の行方と、それに似せた倭国製の三角緑神獣鏡 (百枚をオーバーし、五百枚も出土)が、考古学界の飯の種であり続ける訳です。
この一族が抱いていた、日本列島は自分達が支配する地だと天意を受けている、との驚くべき想念が、後々の世にまで原住民を駆逐し、鬼と蔑称して憚からない征服哲学を生んだようなのです。征服した後の統治哲学はもっと凄いものでした。
◆日本国が成立した頃の東アジア
卑弥呼がAD247年に死去しても、AD700年頃までは、日本国などでなく倭国が東アジアでの通称でした。倭という字は小人の意味があって嫌だ、と改称できたのは、やっと飛鳥時も後半になってからでした。
倭国はもともと筑紫にあったと見られる九州王朝のことで、大和王朝だった倭の入り口に位置する、長髄彦(ナガスネヒコ)と神武が戦った日下(クサカ)坂を、日の下=日本と言い替えた名称のようで、大昔の日本人は「ジッボン」と発音していたようです。それで「ジパング」とマルコポーロにも、思われたのでしょうか。
日本国と称し出しても、決して日本列島の全域を実効支配できていた訳ではありませんが、ともかく中央部と、新たに接収できた九州と関東半分を含めた領域です。
AD350年頃、韓半島では統治していた北支・晉が撤退して、百済・伽耶・新羅が相次いで建国し、この三国が高句麗との同盟敵対を繰り返しながら、以後310年間にも及ぶ覇権争奪の時代を迎えます。
倭の五王と言い、日本の史書には全く記述の無い王達が、東晉や南宋や南斉・梁など、五胡十六国時代の国々に、官位授与を要請して認可された、と中国史書は明記します。
ひょっとして、これは倭国以外にも列島に王朝があったのではないか。九州王朝説の最有力論拠なのです。
九州王朝の王かも知れないし、応神朝の天皇かも知れない王、中国史書に言う「倭王・武」の正体は一体、誰でしょうか?
新王朝と思われる継体天皇の死去後、後継の大王位継承をめぐって、応神系の欽明(キンメイ)天皇が、辛亥年(シンガイネン)クーデターで、後継の二王子を殺害しました。
この結果、応神系(蘇我氏)と継体系(天智)の二王統では、大化改新に至る115年間の怨念抗争に発展し、さらに桓武天皇の平安時代まで陰湿に続くのです。
抗争には常に両王統の故地・朝鮮半島の南端諸国が介入し、際限の無い抗争を続けさせたようです。古代・東アジア史のハイライトです。
半島での同盟と敵対の度に、九州王朝や倭国にも外圧が迫って来て、これに隋や唐もからみ、もし九州王朝があったとすれば、戦費で財政も圧迫されたでしょう。
倭国に協力を要請していた筈ですが、九州王朝の疲弊を待つ倭国側の対応は、軍需景気を基盤整備に充当する、傍観者の立場だったのではないでしょうか。
AD662年、白村江(ハクスキノエ〉で新羅・唐連合軍に敗れて、百済と九州王朝が滅亡する最期に、斎明(サイメイ)女帝や額田(メカダ〉女王の言動など、倭国が見せた対応ぶりからは、そうした疑念を払拭できない何かを感じます。
しかも日本書紀は、九州にも政治勢力が存在していたかどうか、その動静すら抹殺している上、応神を継体の五世の祖として、240年も昔の時代に配転してしまってあるのです。
どうぞ冷静緻密に史書の裏面を洞察して下さい。
昔習った教科書より少し詳しい解説程度で終わらせず、講座が最新・最高水準で解説している、真実に近い古代をご堪能ください。
   

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