ごあいさつ
「古代史教養講座」は、1995年5月に市井の歴史家の竹内 裕先生によって創立された歴史を学ぶアマチュアの会であります。
この会の運営は、2003年9月までは主として先生お一人の講演(ゼミと称します)で約8年間行われました。その集大成が『古代日本千年史』という著作であります。その後は、当会の代表が竹内先生から齊藤 潔にバトンタッチされ、多数の会員有志の勉強発表方式に変わり、現在に至っております。
当会は、多数の社会経験豊かなアマチュアの歴史愛好家によって構成されていますが、会員は多様で多彩な人生観、歴史観を持った人々で、誰にも負けない古代史への情熱をお持ちです。
当会の歴史範囲は、古代史に焦点をあてていますが、テーマによってはその範囲を拡大して、人類史から現代史までと幅広く扱います。又、地域は日本に限らず、世界全体に及びます。
さて、当会は、竹内史観である「通説を疑う」、「渡来史観」と「学際主義」の3点から、出発しましたが、現在における当会の歴史観は以下の通りであります。
1、「通説」や「定説」といっても、歴史学者の仮説であることは明らかであります。しかし、これが有力な学説になるには、歴史学界の多数の賛成票に支えられたからです。多数の賛成が得られるのは、その説が合理的で、整合的で、納得がゆく論拠があるからです。しかし、それも、その時点でのものであって、新しい文献史料や考古資料の発見で変わる事もあり得ます。その意味では通説や定説は一時的で、相対的なもので、歴史的変貌を遂げるのです。竹内先生は、通説や定説を絶対的なものとは見ずに、別の角度から見て納得がゆかなければ、それを「疑う」感性を大事にされました。最高の感性から生まれる洞察力というのは、理論的分析と合わせて、社会体験による知見に基づいた先天的な(アプリオリー)ものから生まれると思います。
2、「渡来史観」は、日本の歴史が古代から、中国大陸や朝鮮半島からの、文化や渡来人の影響によって成立したとする歴史観であります。中国・中央アジア・インド・中近東・ギリシャ・ローマ等の文化が、多少形は変えているものの、日本列島に吹き溜まりのように定着している事は、多くの歴史的文化財、無形の文化財や習俗に見られます。しかし、最近の考古資料の発見や科学的考察によって、多地域で同時又は異なる時期に発生したという自生論も登場しています。
3、大局観で歴史を観る為には、歴史を文献史学や考古学という狭い歴史村に留まらず、多面的視野を必要とする事から、自然科学・農学・地理(気候・地震・火山等)・言語・医学・遺伝子・文化人類学(民俗学)・宗教といった学際的な知見を必要とします。この学際的視野によって、歴史事象は社会・政治・経済史だけでなく、最先端の学術研究成果によって、多面的で厚みのある解釈が可能となりました。
次に、現在の歴史学は、科学的測定法の発展や遺伝子学の応用によって、従来の定説や有力説が次々に再検討が行われ、新しい学説・分野が登場する等、多面的で、豊かな歴史像が形成されつつあります。 又、戦後の多数の考古資料の発見によって、従来学説の訂正や追加が行われています。
その注目の科学的測定法と学説の一端を紹介します。
1、 科学的測定法
① C14・AMS法による年代測定によって、国立歴史民俗博物館は、九州北部の土器の炭化物を分析し、稲作伝来をBC10世紀頃と発表し、弥生時代の開始が大幅に古くなる事を提起しました。
② 現在、約3千年分の木材の年輪変化のパターンが作成された年輪年代法によって、例えば、大阪府和泉市の池上曽根遺跡の大型建物の柱根が、BC52年と判明し、従来の土器編年による年代測判定(AD1世紀中頃)より、約100年遡る事になりました。
③ プラント・オパール分析法
イネ科の植物が化石になったものをプラント・オパールと言いますが、これは1万年経過しても消滅しないので、これを検出して植物を同定するのです。イネは種まで識別可能となり、この分析法によって縄文農耕論が提起されたのです。
④ 花粉分析法
尾瀬ヶ原の花粉分析(電気通信大学・坂口豊教授)で、BC5871~AD1900年までの約7800年間の日本の気温が解明されています。縄文期が温暖で、弥生期が前半寒冷・後半はやや温暖となり、古墳期には再び寒冷になり、奈良・平安期・鎌倉期に温暖になり、そして、室町期以降、再度寒冷になる事が科学的に明らかになりました。
⑤DNA(遺伝子)分析法
血縁関係が判明し、三内丸山遺跡では、DNA分析を行い、ここでクリの栽培が行われていた事が明らかになりました。又、現生人類誕生の分野では画期的な説が誕生しました(後述)。
2、認知考古学の登場
認知考古学は、認知科学、心の科学等の研究成果を援用・応用した考古学的研究で1990年代から注目されています。
① ネアンデルタールを含む初期人類の心の構造は、技術的知能(石器の製作)、社会的知能(集団生活を円滑に行う知能)、博物的知能(食料の効率的獲得に必要な知能)の3つの領域に分割されています。そして、この知能は、後天的獲得だけでなく、生まれながら、普遍的に備わっていると仮定します。我々現生人類は、言葉の発達によってこの3つの知能を統合して、芸術・宗教・科学という文化的発達を可能としたようです。装身具、トーテミズム、洞窟壁画がこれに当たるというのです。
② 約1万年前の農耕の発生は、気候変動や環境変化による資源の枯渇によるとされてきましたが、考古遺跡からは、自然環境の変化や人口増加等の社会的矛盾が決定的要因とは言えないのです。狩猟・採集民は定住化後に、多種多様な動・植物の栽培化を試みたようです。そして、試行錯誤の結果、その土地に最適な動植物が選択されて農耕(家畜)への生業転換をはかったのです。この栽培というシステムは、世界各地で異なる植物種(米・麦・トウモロコシ・イモ等)が存在することから、人類の持つ上記3つの知能の所産と言えそうです。
③ ヨーロッパと日本列島では、農耕文化は伝播によってもたらされました。そして、ヨーロッパ西北部と日本列島では、いずれも農耕民が先住の狩猟採集民を駆逐したのではなく、在地集団による導入や移住者との融合によって、新しい文化が起こったのです。即ち、穀類や家畜は単なる食べ物として持ち込まれたのではなく、それをめぐる特定の社会的関係と社会的再生産システムや風習のセットを伴っていたのです。
3、現生人類(新人・ホモサピエンス)について
①、従来は、形質人類学の観点から、地球上の各地の原人が、夫々各地域で、同時進行で進化して現生人になったという多地域進化説が有力でした。しかし、現在は、分子生物学(DNA・Y染色体等)の研究が進んで、新しい有力な仮説が誕生しました。それは、現生人類が約20万年前にアフリカで誕生し、その一部が約7万年前に出アフリカを果たし、ユーラシア大陸に拡散したという単一起源説です。即ち、DNA等という遺伝子指標でみると、ほとんどのDNAはコーカソイド・モンゴロイド・ニグロイドに共通して存在するので、所謂従来の肌の色で分ける人種論は成立しない事になりました。
②、脳の容量も大きく、筋骨もたくましく、あらゆる自然条件に適応していたネアンデルタール人(旧人)が約3万年前に絶滅し、生き残ったホモ・サピエンス(新人)が、脳の容量や身体面でもネアンデルタール人よりも劣勢であった事は逆説的であります。 弱体であった新人が未知の自然条件に適応する為には、道具の使用と発明、それに集団で行動する為に言葉と知恵が発達したという指摘は刺激的であります。
③リーダーの登場も、動物界のボスの発生とは異なり、集団行動が必須の社会的条件下にあった新人にとって、リーダー選抜がその適性によって行われるという暗黙の合意は、新人が生き残る特有の知恵であったと思われます。
4、日本人の祖先
BC3万年前にマンモスハンターの人々が、マンモスやヘラジカ等の大型動物を追って列島へ渡来したと考えられています。現在発見されているC14の分析による最古の人骨は、石垣島で出土した24千年前のものです。これらの人々が縄文人に受け継がれて、弥生時代・古墳時代に渡来した人々と混血を繰り返して、日本人が形成されたと考えられています。日本人はDNA分析によって、世界的にも稀な多種類な遺伝子を持った民族であります。日本人単一民族論は非科学的な誤った見方なのです。
5、中国文明の多元性
従来、中国歴史学界は王朝史観、中原文明中心史観でありました。しかし、現在では、「長江文明」や「遼河文明」等といった多元的文化によって構成されていた事が明らかになってきています。所謂、黄河流域の中原文明一元論は否定されています。この多様で、多元な中国文化は、時代を経て、夏・商(殷)の時代に中原勢力によって集約され、中原勢力が政治的主導権を握って中国王朝が成立したのであります。
6、南米の古代アンデス文明の神殿建設に見る権力の発生
神殿建設は、権力者によってなされるというのがユーラシア大陸に一般的にみられる知見であります。即ち、権力者は余剰生産物が発生して富が集積されてから生まれ、彼の権力で神殿が築かれるというのが経済重視での文明論で、これが通説です。
①古代アンデスでは1958年に始まった日本調査団は、繰り返される神殿の更新と巨大化が、平等な社会構成員の自主的参加によって行われている事を発見したのです。
②神殿更新の度に、共同労働力の必要性や社会統合の契機となり、これが食糧増産となったと観察しています。リーダーは、神殿更新を通じて誕生するというのです。又、リーダーの権力強化は、入手困難な財の入手ネットワーク(交易と生産)の独占的統御によるとされます。
この発見は、経済重視の歴史進化主義や文化進化論に一石を投じ、多様な歴史観の必要性を暗示しています。(関雄二『古代文明アンデスと西アジア 神殿と権力の生成』)
歴史三分法にいう古代史・中世史・近現代史では、文献史料・考古資料が夫々、少量、並、多量であることから、歴史家は、頭脳の古代史、ロマンの中世史、そして、体力の近現代史と呼んでいるそうです。
さて、皆さんは、推理を働かせる古代史派ですか、又は、ダイナミズムの中世史派ですか、それとも膨大な史・資料と格闘する近現代史派ですか?
当会は、歴史学会の貴重な研究成果やこれまで発見・発掘された一級の文献・考古資料を重視する立場を尊重し、その上で、豊かな社会経験と知見を武器に、勉強した結果を発表します。歴史を学界の独り占めにさせる必要はありません。さあ、皆さんも人生経験、知恵、推理を駆使して、御一緒に歴史の解明に参加しませんか!!
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