古代史ニュース 2020.11号 No.300

⦿本ニュース300号は、10~11月号です。
9月・10月休講と今後の方向
当会のゼミは、9月・10月も休講とします。同じく、世話人会も中止とします。
理由は下記の通りです。
去る5月25日に政府の緊急事態宣言解除の6月下旬から、新型コロナ・ウイルス感染者が増加し、7月に入ると東京は200人以上となり、隣接3県も2桁、近畿・東海・北九州も急増しています。科学者の指摘した第2波が到来した可能性があります。又、これから外国人の受け入れ緩和により、空港検疫での陽性者も急増しており、更なる感染拡大が憂慮されます。秋・冬には第3波の到来も予想されます。即ち、9月以降もコロナ感染リスクは拡大する状況にあります。
こうした事態に対して、政府は経済優先を基軸に、イベントの観客制限緩和(7月10日以降)や、観光業支援(GOTOトラベル・22日以降)等を開始するとし、経済とコロナとの共生策を発表しました。即ち、国民個々の創意・工夫でコロナ対策を乗り切って下さいという事です。即ち、我々国民は夫々の自己責任で感染から身を護るという事になります。
コロナの重症化リスクは、高齢者ほど高くなっています。又、若い人の軽症者でも退院後に長く後遺症に悩まされるケースや中年の重症者が退院後も現場復帰できない後遺症ケースが報告されています。
前号でも触れましたが、高齢者の多い当会としては、再開を、感染の自己責任論で片づけるわけにはいきません。即ち、再開の条件は、感染しない事です。又、万が一、感染しても軽症で治癒する環境が整備されることです。その為には、特効薬やワクチンの普及が必須です。現在、日本を初め、英国、中国、米国、独国等の世界最高レベルの科学者や医療機関が開発に取り組んでいます。直近の報道では、英製薬大手は9月の供給開始を表明しました。是非共、早期の普及を期待したいと思います。もうしばらく、耐コロナの日常生活が続きそうです。散歩や運動を取り入れた生活、バランスのとれた飲食、電話・スマホ・PCでのコミュニケ―ション、ストレスを溜めない笑いのある生活習慣で、免疫力をアップする生活を日常化して、肩の力を抜いて自然体で、長丁場を乗り切りましょう。
さて、この期間に皆さんの入会時やゼミ参加時に配布した「推薦図書」をご覧いただき、未読の書籍をお読みいただくのも一案かと思います。もし、「推薦図書」が見つからない方は、その旨メールでご連絡ください。当方より添付メールで送信します。
古代史ニュース300号編集を終えて
―齊藤 潔会員記― 古代史ニュースが、300号を迎えました。当会も、1995年の創立以来25年となりました。これも偏に会員各位のご協力のおかげであります。 それにしても、この25年間の日本は大地震、火山噴火、台風・大雨洪水、疫病(細菌・感染症)と災害の多い時代であります。 1995年には、阪神淡路大震災がありました。加えて、この年はオウム真理教教団の地下鉄サリン事件という反社会的な集団殺人事件がありました。2000年には、有珠山や三宅島が噴火し、2011年には東日本大地震があり、大津波によって東電福島第一原発が爆発し、大量の放射能が日本全国に拡散しました。福島原発は未だに高い放射能の為に、最新の科学でも手を付けることができていません。
大雨と洪水は、台風時だけでなく、梅雨時を含めて毎年の様に起こり、本年も時間100mmという降雨量が、熊本・大分他に大被害をもたらしました。 そして、今回のコロナ(COVID-19)であります。今回の新型コロナは、疫病の世界的大流行という意味では、100年前の1918年~20年に大流行したスペイン風邪に相当します(後述)。 災害列島という言葉があります。自然災害、疾病災害を古代の文献から、渉猟してみましょう。
地震の記録は、720年編纂の『日本書紀』の允恭天皇5年秋の記録が初見です。901年編纂の『日本三大実録』には869年発生の「貞観大地震」 が記載されています。この地震は、地震学者からは東日本大地震に類似していると指摘されています。
火山噴火、台風、大雨洪水の記録は、歴史書や貴族・僧侶の日記等に多くの記述がみられます。
疫病の記録の初見は、『日本書紀』の崇神天皇5年~7年の記述で、3年間に人民の半数が疫病で死んだと記載されています。この疫病が、1種類の疫病か否かは定かではありませんが、3年間も収束しなかったという記録から、新規の感染症の大流行があったのではないかと想像されます。 又、797年編纂の『続日本紀』には、729年に長屋王を自殺に追い込み、事実上の政治権力を掌握した公卿の藤原4兄弟(不比等の子)全員が、737年に天然痘で死亡したと記載されています。天然痘は春に筑紫で伝染・発生(海外より上陸)して、夏を経て秋には奈良の都まで拡散し、公卿以下多くの人民が死んだと記録されています。 さて、次は経済状況であります。1995年の日本経済は、1986年~91年のバブル後の平成不況下でした。そのバブル期には、日本は世界のGNPの10%を占め、米国に次いで第2位の経済大国と称されました。しかし、この経済力指標が円高効果によるものであり、その評価には疑問がありました。以後の日本は、低成長、マイナス成長という構造不況が長く続き、従来型の経済指標(経済成長・GDP/GNP)で見る限り、失われた20~30年ともいわれるデフレ期となって今日に至っています。この期間に、グローバル化で飛躍し、世界の工場となった中国と、GAFAが世界を席巻した米国の復権が目立ちます。又、インドや東南アジア・台湾・韓国もIT関連で実力をつけて、存在感を示しています。一方、西欧は日本同様に、従来型の経済指標で見る限り、元気がありません。
ところで、100年から150年前にいわゆる産業革命を達成して経済成長を遂げ、今や成熟期に入っている日・米・欧の先進国を、経済成長やGDPという数字で評価するのは、適切ではないと思います。先進国は新指標であるESG(環境・社会的責任・ガバナンス)を指標に、新感染症のワクチンや特効薬の開発、プラスティックの無害化、温暖化対策等で貢献するのが社会的使命だと思います。
一方、世界と日本は観光産業に注力しており、多くの世界遺産を登録しています。私はこの中で文化遺産に注目しています。特に縄文期の文化遺産は現代に多くのヒントを与えてくれています。それは、農耕文化(弥生期)に先行する時代が13千年以上継続していたということです。 この時期の列島の人口は、人口学者は縄文中期の26万人がピークと推定しています。即ち右肩上がりの人口ではないのです。原因は不明ですが、人口は中期以降減少しましたが、縄文社会は無理に栽培植物を増やしたり、食料争いによる戦いを行った形跡がないのです。縄文人の生活回路・思考回路は、成長志向とは言えないようです。一方で、土器や土偶、石器には、文化的に高い成熟度が感じられます。
成長という概念は、3千前の弥生期の農耕文化の開始から始まります。弥生期は、渡来した稲作をはじめとした農耕によって経済成長、人口増加が起きた時代です。そして、土地や富を奪う戦いが多発し、又、農業生産体制拡大のために自然破壊も進んで、現代の様な戦争、災害や疫病の時代となりました。弥生土器は縄文土器に比べると無味乾燥で、文化遺産というよりも効率的な生活遺産の感があります。
同じことが、江戸期の300年間でも言えます。世界史上、300年間戦争がなかったのは日本の江戸期だけです。江戸期は人口も経済成長も一貫した右肩上がりではありませんでした。しかし、西洋的尺度の機械科学ではないが、自然科学面では極めて高い技術レベルにあり、又、園芸農業では世界一でした。更に文化面では、小説、俳諧、絵画、工芸では世界最高水準にあり、現在、日本を代表する芸術品の多くは、江戸期に誕生したものであります。
現代に戻ります。1995年以降の25年間に経済力は縮小しました。量的規模を誇る産業は軒並み、中国を初め発展途上国にその地位を奪われました。しかし、技術や科学的な知的分野では、世界に誇る産業や人材が沢山あります。その証拠の一つが、日本人科学者のノーベル賞受賞です。 1995年~2019年までに、今回のコロナ問題について、科学的に発言している山中伸弥氏や本庶佑氏を初め、化学・物理学・医学生理学の分野で19名が受賞しています。19人の方々の日本と世界への知的貢献は、計り知れないものがあります。 次に、IT革命に一言、ITがグローバル化によって脚光を浴びています。米国のGAFAや中国のユニコーンが世界を席巻しています。しかし、現在のところ、グローバル化に飛躍を与えたことは評価しますが、人間社会の根源的な側面に貢献するか否かは、ITの波に乗る米国や中国企業の行く末をもう少し先まで見て判断する必要があると思います。 今回の300号は、コロナ禍の際中の編集となりました。コロナ禍は世界規模です。100年前の1918~20年の3年間流行したスペイン風邪(インフルエンザ・宿主は水鳥)に匹敵するそうです。この時の世界中の人々はマスクだけでウイルスと対峙して、多数の人々が感染し、感染率が40%前後になった時に収束したようです(世界人口18億人中、感染者6億人・死者4千万~1億人。日本は人口57百万人中、感染者24百万人・死者39万人)。この時、英国のロイド・ジョージ首相や原敬首相も感染しました。このような収束を、科学者は集団感染による収束と呼ぶようです。集団感染というのは、防御策を採らず、自然体で感染者を増やし、収束させるという乱暴で危険な方法です。
それでも、今回、英国とスエ―デンがこの方法を採用しました。結果は、犠牲者が多く途中で断念しました(英国のジョンソン首相は感染後重症化しました)。今回のコロナは、経済優先の米国やブラジルの様に、感染者が激増していますが、ワクチンの普及までは収束しないでしょう。 当会のゼミも3月以来8ケ月間の休講になります。コロナ感染は、高齢者には生命に関わることですので、ワクチンの普及まで待つという長丁場を覚悟する事にしました。科学的知見を第一にして、正論と誤論を用心深く見分けて、安全・安心な再開を目指そうと考えています。 現在、コロナ禍の議論が盛んに行われています。それは、先述の福島第一原発爆発による放射能禍(セシウム・トリチウム等)の有害・無害論や楽観論・悲観論に関する議論が行なわれ、爆発地に近い東北や関東の人々の困惑状況と類似しています。特に、科学から離れた政治的、経済的利害に繋がっている人々の発言には注意が必要です。今回も正確な情報の選択と、本物の知見を見分ける科学的で、合理的な見識と洞察力が必要だと思います。以上。
ゼミ休講中のニュース掲載内容
古代史ニュースの内容は、これまで、次回ゼミの紹介と会員の寄稿文を中心に掲載してきました。本年は休講が続いて既に3か月分のゼミの紹介文が掲載済みとなっています。従って、今回からゼミ再開までは寄稿文を中心に掲載します。ところで、ステイ・ホームの皆さん、あなたも投稿文を書いてみませんか。読書の感想文、昔訪ねたツアーのエピソード、日頃感じていることを投稿してみませんか。
当方宛のメールの添付(WORDのベタで結構です。ニュース掲載のように2段表示にする必要はありません)で送信してください。
記紀に隠された史実を探る・第1回
~丁未の乱(蘇我物部戦争)についての一考察  ―飯田眞理会員記―
【はじめに】筆者は記紀において、隠蔽や捏造があると考える。時代順ではないが、何回かにわたり筆者の説を述べていくことにする。
(1) 丁未の乱に至る経緯(要点のみ)
➀敏達十四年三月:物部守屋は蘇我馬子の建てた寺を壊すなどをした。
②同年六月:物部守屋らは、仏教を滅ぼそうと共謀したが、馬子によって阻まれた。―同年八月敏達没―
③用明元年五月:穴穂部皇子は物部守屋に命じて、皇后の寵臣三輪逆を殺させた。
④用明二年四月:守屋は別業のある河内の阿戸に退いて人を集めた。
⑤同月:守屋側であった中臣勝海は、彦人皇子の水派宮から退出するとき、迹見赤檮によって殺された。
―四月九日用明没―
⑥五月:馬子が穴穂部と宅部の皇子を殺した。
⑦七月:(丁未の乱)多くの皇族やほとんどの群臣の兵が守屋討伐に進軍し、物部本家は滅んだ。
⑧八月:炊屋姫大后と群臣の勧めで泊瀬部皇子が即位した。(崇峻天皇) 
⑨崇峻五年十一月三日、蘇我馬子は東漢駒を使って崇峻天皇を殺した。
(2)筆者の疑問
以上のことは、おおよそ真実であると考える。馬子の勝利の最大の要因は、最も影響力があった炊屋姫大后(推古天皇)を馬子が奉ずることができたことであると推測できる。しかし、筆者はこの一連の政争には強い疑いをもった。守屋が非蘇我系の彦人皇子ではなく、蘇我系(?)の穴穂部皇子を天皇に擁立しようとしたことが不可解なのである。日本書紀によれば、穴穂部真人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子の三姉弟の母である小姉君は、蘇我堅塩媛の妹とされる。馬子にとって、小姉系三姉弟は血縁的に炊屋姫大后と同等の姪・甥である。物部守屋が穴穂部皇子を擁立しようとしたとしても、泊瀬部皇子(崇峻)が馬子の傀儡であったにしても、近親者である甥を殺すことは異常である。
(3)筆者の考察
➀疑問を解くきっかけは、古事記の次の記載である。『(欽明天皇が)岐多志毘賣の命の、小兄比賣を娶りて生みし御子は、・・間人の穴太部の王・・』とある。
」とは中国語辞典によれば(ⅰ)母の姉妹(ⅱ)妻の姉妹である。この場合は岐多志毘賣の姨なので、岐多志毘賣の母の姉妹ということになる。ということは、小姉君(小兄比賣)は蘇我稲目の妻の姉妹になり、物部の女の可能性が浮上する。
②さらに物部氏と小姉系との関係も見出すことができた。穴穂部や泊瀬部は安康天皇と雄略天皇にちなんで創立された名代である。この二人の天皇は物部氏によって支えられていた。よって、穴穂部や泊瀬部を管理していたのは物部氏であったと考えられる。
③物部本家が滅んでから十数年後、穴穂部真人皇后は息子の厩戸皇子(聖徳太子)と共に斑鳩に宮を構えた。斑鳩の地は物部氏の支配地であった。穴穂部真人皇后と物部氏との結びつきが示唆される。橿原考古研の小栗明彦氏によれば斑鳩に存在する藤の木古墳は、物部氏の古墳とされる石上古墳群と構造が全く同じとのことである。(藤の木古墳の被葬者については次回に述べる。)
④崇峻天皇(泊瀬部王子)についても「泊瀬部」の他に物部氏との関係が見出すことができた。欽明、敏達、用明の三天皇の妃と子は、日本書紀も古事記もほぼ同じ記載なのに、崇峻天皇だけが異なっている。古事記では崇峻天皇の妃の記載がない。その一方で、日本書紀では崇峻天皇の妃は大伴小手子で、「蜂子皇子と錦代皇女を生んだ」と記す。しかしこれは虚偽である。なぜなら『釈日本紀』が引用する『上宮記下巻注伝』には、「聖徳太子の皇子である長谷部王と大伴小手子との子が「波知乃古(はちのこ)王と錦代王である。」と記されている。つまり日本書紀編纂者は、長谷部王の妃と子を、泊瀬部皇子(崇峻)の妃と子にすり替えたのである。では崇峻の真の妃は誰か、『先代旧事本紀』では崇峻の妃として物部守屋の妹の布都姫が記されている。(布都姫はその後、物部石上贄古の妻となったとされる。)崇峻の妃は守屋の妹であったのである。そしてそのことを隠すために、古事記は妃を記さず、日本書紀は上宮記から捏造したと考えられる。以上の考察より、小姉君系の三姉弟は血縁も含めて物部氏と密接な関係があったことは間違いないと考える。馬子が穴穂部皇子と崇峻天皇を容赦なく殺したことが納得できるのである。泊瀬部皇子は守屋討伐のとき、皇族のトップに記されている。おそらく兄の穴穂部皇子が殺された後は、馬子と炊屋姫大后(推古)の傀儡になり、天皇に擁立してもらうことを条件に守屋討伐に同意したのであろう。
(4)聖徳太子の母が廃仏であってはならない
なぜ日本書紀は小姉君の三姉弟が物部系であることを隠したのか。筆者は、聖徳太子の聖人化と関係していると推測する。日本書紀の編纂期は国家仏教の最盛期であった。廃仏の物部守屋を悪人として記していることからも理解できる。仏教の聖人である聖徳太子の母(穴穂部真人皇后)が廃仏の物部系の皇女であったことは、極めて不都合なことである。このことは絶対に隠さなければならなかった。よって日本書紀は穴穂部三姉弟の母(小姉君)を崇仏の蘇我の娘として虚偽記載したと、筆者は考える。実際、穴穂部真人皇后が廃仏であったことを示唆する史料も存在するのである。次回は続編として聖徳太子について述べる。―以上―
再開3ヶ月のゼミ・テーマと発表者
〇会議場所は全水道会館(13:15~17:00)です。
1、再開後最初の月(紹介文はニュース296号)
①後期青銅器文明の崩壊と「海の民」後編
:亘 康男会員
②天皇の国風諡号と関連名の意味
:井上政行会員
2、再開後2番目の月(紹介文はニュース298号)
律令とローマ法:藤田一郎会員
3、再開後3番目の月(紹介文はニュース299号)
邪馬台国研究史―昭和期:小川 孝一郎会員
全水道会館会議室
11月以降のゼミと世話人会会場は、全水道会館に変更となります。アクセスはJR・都営三田線・水道橋駅で下車し北へ徒歩1~2分。


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