古代史ニュース 2020.04.30 No.298

〇ゼミは3、4月に続き5月、6月も休講です。
⦿本ニュース298号は、4~7月合併号です。

7月4日ゼミ(3月7日ゼミの振替)
①後期青銅器文明の崩壊と「海の民」後編
―亘 康男会員:紹介文はニュース296号参照
②天皇の国風諡号と関連名の意味
―井上政行会員:紹介文はニュース296号参照
律令とローマ法―古代法の東西比較―
―8月1日ゼミの予告:藤田一郎会員記―
律令とローマ法は、ともに古代社会で導入された法律ですが、それが生まれた古代中国と古代ローマの政体の違いを反映して、両者の中身は全く異質なものとなっています。
刑法にあたる律の歴史は古く、戦国時代(BC5世紀~BC3世紀)の諸子百家の一つである法家思想がその根底にあります。法家思想は、信賞必罰による法治主義によって、強力な中央集権国家の樹立を説きました。その法家思想をもとにBC4世紀から国力の増強をはかり、BC221年に中国初の統一国家(中央集権国家)を実現したのが秦です。
一方、行政法や民法などに相当する令は、前漢の七代皇帝武帝(在位BC141年~BC87年)による儒教の国教化以降、儒教倫理の受け皿としても用いられました。とりわけ、君臣・父子の身分秩序の維持を中心にして、統一王朝の思想統一には極めて都合のいい政治哲学(修身斉家治国平天下)を育むうえで大きく貢献しました。
儒教思想は、その後の中国社会においても最高の徳目とされたため、中国では古代から近代に至るまで、民衆の政治参加は完全に遮断され、民衆の側からも政治参加への要求が出されることはありませんでした。一君万民(王地王民、日本では公地公民)を理想形とする社会では、個人の政治的権利とか人権とかいった言葉は勿論のこと、そういった概念さえ芽生えることはありませんでした。したがって、律令は当然のことながら、支配者のための支配の手段として発展してきました。
それに対して、古代ローマは王政でスタートしたものの、王も市民集会での信任投票を受けるなど緩やかな権力構造となっていました。その王政も、BC509年には七代目王の失政を機に王が追放され、以降は権力の過度な集中を避けるため、王に代わって任期1年の2名の執政官が市民集会で選出され、政治・軍事の最高責任者となりました。
ローマ史では、BC509年からBC27年までの政体を共和政とよんでいます。共和政期の特色は、一部の既得権所有者である貴族階級に対して、多数派の新興勢力である平民による政治的権力の平等化闘争が続いたことです。その結果、BC367年には2名の執政官のうち1名は平民から選出することとなり(リキニウス法の成立)、BC287年には平民会の決議を元老院の承認なしに国法とすることによって(ホルテンシウス法の成立)、貴族階級と平民の政治的権利については、ほぼ平等な社会が実現しました。こういった社会背景のもとで生まれたローマ法は、支配者のための法ではなく、市民の権利保護を主たる目的としています。
 ゼミでは、律令とローマ法について、歴史的な成立過程から入って、具体的な法の内容についてまで、つぶさに眺めてみたいと考えています。   以上
三種の神器の複製と真贋
―清野敬三会員記―
◇はじめに◇
三種の神器(じんぎ)とは、皇位の標識として歴代の天皇が受け継いできたという三つの宝物をいう。すなわち、八咫(やたの)鏡(かがみ)・天(あめの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ)・八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま)を指す(広辞苑)。天皇の即位にはこの神器が必要とされ、先の令和の即位礼でも、剣璽の箱が恭しく天皇に付き従う様子を、我々はテレビで見た。
神話によれば、これらは天孫降臨の際に、天照大神から授けられたものとされる。本来なら、当初の本体が代々の天皇に引き継がれるべきものである。しかし、時代が降るに従い、オリジナルの鏡は伊勢神宮へ、剣は熱田神宮に移され、宮中で奉斎されている鏡と剣は複製品である。宮中にあるオリジナルは玉だけだという。平安時代には、その宮中の鏡も火事で焼損している。源平の合戦では、複製品の剣も安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んでしまい、さらに代替品に置き換わっている。南北朝時代には、南朝と北朝が神器を奪い合い、それぞれが相手の神器を偽物と断じ、どちらが本物か判別が困難である。オリジナルと複製品、本物と偽物が混在しているように見える。これら三種の神器をどう考えたらよいのだろうか。
◇三種の神器の変遷◇
三種の神器の起源について、『紀記』『古語拾遺』ではそれぞれ異なった話を載せているが、凡そ次のように要約できる。(戦前の教科書では、それら異伝を総合し潤色を加え、一つの物語にまとめている。)
 八咫鏡は、天照大神が天(あめ)石窟(のいわや)に隠れた時に、八百万の神々が石凝(いしごり)姥(どめ)命に命じて造らせ、八尺瓊勾玉も、その時に玉(たまの)祖(おや)命に造らせた。天叢雲剣は、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した時に、その尾から現れた剣である。
天照大神は、天孫降臨に際し、この三種の神器を瓊瓊杵尊に授け、特に鏡は天照大神の魂として地上の国を治めるように命令した。代々の天皇は、これらを常に身辺に奉安し相伝えて皇位の御璽(みしるし)とした。 ところが、崇神天皇の代になり、天皇と同殿同床は畏れ多いとの理由で、鏡と剣の二種は大和の笠縫(かさぬい)邑(むら)に移し、宮中には本体の玉と模造の鏡と剣を奉安した。次の垂仁天皇の代になると、笠縫邑の鏡と剣を伊勢に移し、伊勢神宮のご神体となった。さらに景行天皇の代に、伊勢神宮の剣は日本武尊の東征の際に持ち出され、その後草薙の剣と改名され尾張に運ばれ、熱田神宮のご神体となった。この結果、宮中に留まったのは本体の玉一種と模造の鏡剣二種となり、これが天皇のシンボルとして受け継がれることになった。
◇本体と分身の関係はどうなるか◇
 鏡で云えば、八咫鏡は天照大神の御霊代(みたましろ)とされる。瓊瓊杵尊の降臨に際して天照大神は「我が御魂(みたま)として」斎(いつ)き祀るよう指示して鏡を授けた。従って八咫鏡には天照大神が宿るとされる。天照大神の御霊代として伊勢神宮に祀られている鏡が本体で、宮中の鏡はその分身である。我々の常識ではオリジナルの本体の方がより尊いように思えるが、そうはならない。
日本の神は物に宿る。鏡は造られた段階では物であっても、天照大神が宿ることによって天照大神とみなされる。宮中の鏡も、本体と分身という違いはあっても、神が宿れば同一とみなされる。従って、宿る物が無数にあれば、宿る神も無数に出現する。これが日本の神の融通無碍のところであり、便利なところでもある。伊勢神宮の神鏡も宮中の分身も、どちらも同一に尊いということになる。これが剣でも同じことが云える。八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣は、天照大神が瓊瓊杵尊に神器として授けることにより神性を宿した。その後、前述のとおり宮中から笠縫邑と伊勢神宮を経て、熱田神宮のご神体として祀られたのが草薙剣の本体で、宮中の草薙剣はその分身である。分身と云っても三種の神器の一つであり、代々天皇のシンボルとして本体と同様丁重に祀られてきた。
◇神鏡は焼損した◇
 三種の神器の歴史では、無傷なのは神璽だけとされ、神鏡は平安時代に3回も焼損している。神鏡焼損の初回は天徳年間の内裏の火災で、内侍所にあった宝器とともに神鏡も焼亡した。しかし、翌日探してみると神鏡が自ら飛んで紫宸殿の桜の木に掛かっていたという話になっており、代替品に置き換えられた可能性もある。2回目は寛弘年間の火災で、焼損の度合いが大きく、改鋳を検討したが小蛇が出現したため、そのまま新しい辛櫃に収めた。3回目は長久年間で、この時は原形を失い金色の玉二つが焼け跡から発見された。この粒として残った神鏡が現在に至っているらしいが、櫃の中身は誰も見ることができない。
◇草薙剣は紛失し補充された◇
 源平の合戦の際、宮中にあった三種の神器は、安徳天皇とともに平氏により持ち去られた。そして壇ノ浦で安徳入水の際、神器も海中に沈んでしまった。神璽の箱は海上に浮かんだところを回収し、神鏡も何とか確保したが、宝剣は沈んだままついに戻らなかった。
ここで源氏方は2年間にわたって海中の大探索を行っている。分身とは云え、朝廷にとってそれ程の大問題であった。しかし、いつまでも放置するわけにいかない。清涼殿の昼(ひの)御座(おまし)に置かれていた剣を、宝剣の代用とすることに決定した。その後順徳天皇の時代に、伊勢神宮から後白河法皇に贈った剣に、さらに置き換わっている。いざとなれば、神器も代替可能であることが分る。
 この平氏都落ちで安徳不在の間、京では後鳥羽天皇の践祚が行われた。しかし、儀式に欠かせない三種の神器が存在しないという問題が生じた。そこで編み出されたロジックが「如在之儀」と「太上法皇詔書」である。「如在之儀」とは、存在しなくてもあたかも在るが如く振舞うことであり、「太上法皇詔書」とは、後白河法皇の命令である。いろいろレトリックを駆使して便法を生み出している。
◇南北朝の神器の混乱◇
 建武期から南北朝時代にかけて、三種の神器は受難の時代を迎える。後醍醐天皇は正中の変で倒幕計画が失敗した後、元弘の変を起こした。これも密告され、三種の神器を携行して笠置山に脱出したが、幕府に捕らえられ隠岐に配流された。その際、後醍醐は神器の引渡しを要求されたが一旦は拒否した。神鏡は内侍所に残し剣璽だけを持ち去ったなど諸本により異説があるが、結局は三種とも、その間に践祚した持明院統の光厳天皇に渡されたとみられる。
 2年後、後醍醐は隠岐を脱出し、足利尊氏らの活躍により鎌倉幕府は倒れ、建武の新政が始まる。後醍醐は不在の間に践祚した光厳を廃位し、自分は神璽を保持したまま隠岐へ行ったと強弁し、単に隠岐行幸に過ぎないから自分は重祚ではないと宣言した。なお、宝剣は出雲大社に代わりの剣を献納させて、神器を揃えている。
 建武の新政は短期間で失敗に終わり、後醍醐は比叡山に逃れたが尊氏と和睦することとなり、北朝第2代に即位していた光明天皇に神器を譲渡した。南朝側は、譲渡した神器は偽物であり本物は手元に残したと主張するが、本当のところは分からない。
後醍醐没後に即位した後村上天皇の時、南朝は一時優勢になり正平の一統が成り、南朝側が北朝側の神器を接収した。このため北朝はその後の3代の天皇は神器なしの即位となっている。皇統の分裂は、足利義満の和議を南朝が受け入れて、最終的に南北合一が成った。南朝側の神器は北朝側に譲渡され、神器と皇位の混乱はこれで一応の決着がついた。
 しかし、旧南朝側の不満から禁闕の変が起こり、鏡は無事だったが剣璽が内裏から奪われる事態となった。その後、宝剣は清水寺で発見されたが、神璽が所在不明となってしまった。10数年後、神璽が吉野の後南朝にあることが判明し、赤松氏による長禄の変で神璽も幕府側に戻った。この結果、北朝の皇統の許に神器は三種とも揃い、以後現在まで受け継がれることになる。
◇『神皇正統記』と南北朝正閏論の神器観◇
 北畠親房の『神皇正統記』によれば、三種の神器の鏡は正直、璽は慈悲、剣は智恵を象徴しており、天皇が兼ね備えなければならない徳目とする。その意味でも三種の神器は天皇にとって欠くべからざる存在であり、三種の神器を持たない天皇は正統ではないこととなる。
ここから南朝正統論者は、神器を持たないで践祚した北朝の光厳天皇は偽主であり、神器を擁した南朝の後村上天皇を正統の天皇と主張する。しかし、この「神器あるところ正統あり」という考え方は論理が逆であろう。正統の天皇が持てばこそ真の神器であり、その逆ではない。同じ神器でも、偽主が持てば偽器となる。主体は天皇であり神器ではない。神器は北朝にも南朝にもあり、どちらも自己の神器を真とし他を偽とする。神器の有無をもって皇統の正偽を決めるのには無理がある。
 南北朝正閏論争は、江戸時代に水戸学派を中心に論じられたが、明治時代に再燃した。本来、学術上の問題であるべきものが政治上の紛争として炎上した。国定教科書がこの時代を南北朝時代と命名し、両統並列の記述となっているのを、南朝正統論者が政府を激しく攻撃し、大臣の進退問題にまで発展し収拾がつかなくなってしまった。結局、明治天皇の勅裁を仰ぐこととなり、「三種の神器を所有していた南朝が正統である」とされた。しかし、この裁断は、神器の所在を根拠としており因果が逆である。また自らが北朝の皇統でありながら南朝を正統としたことは、南朝正統論優勢の時流に流されたものであろう。
 三種の神器は過去、分身が造られ、代替品に代わられ、或いは毀損を受け転変したが、それらが正統の天皇に奉持され且つ神性を宿すと認められれば、その何れもが真の神器と云えよう。以上 (令和元年12月記)
ヴェトナム・カンボジア旅行記
(2020年2月17日~2月26日)
―磐城 妙三郎会員記―
新型コロナウイルスが心配される中、問題なくハノイに到着。ヴェトナムの見学先でまず目についたのは博物館、史跡、寺院などの敷地内に置かれた巨大な盆栽。中国からの影響か、日本からの影響かは判らないがヴェトナムでこれほど盆栽文化が根付いているとは驚きでした。次なる発見はハノイのタンロン遺跡(旧ハノイ城址)に展示されていた直径が背丈、胴の長さが3mほどある大太鼓でした。形状が和太鼓とそっくりでしたが、胴の作りが樽と同じ構造をしており、日本の様な刳り貫きではありませんが古代の東南アジアに広く使われた青銅製の銅鼓が進化したものではないかと推測されます。また、各地の博物館や史跡で見られた木製品の家具や調度品の殆どが黒檀や紫檀で作られています。世界遺産地区に整備された木道が高級木材のマホガニーで作られており、これも驚きでした。(帰国後に調べてみたらマホガニーではなく類似の南洋材とのことが判明)ヴェトナムは古くは北部の南越国、中部沿海部の林邑国(チャンパ王国)、メコンデルタ地帯の南部およびカンボジア、タイも含む扶南国(クメール王国)からなりそれぞれ異なる文化を有しています。北部は越人を中心とした中華文化、中部はチャンパ人、南部はクメール人を中心としたオーストロアジア語族でインドからヒンドウと上座部仏教文化、中国から大乗仏教文化を受け入れています。言語はチャム語やクメール語ですが文字はサンスクリット文字を借用したものです。(現在はアルファベット)したがって北部のハノイでは仏教寺院や儒教の廟が史跡の中心でした。中部のフエ、ダナン、ホイアンを訪れたなかで注目されたのはダナンにあるチャム彫刻博物館でした。彫刻というのですっかり木彫と思っていましたが殆どが石彫でした。展示物はヒンドウ寺院から発掘された神像や建築装飾でしたが、その中で特に目を引いたのが性器崇拝のシンボルとされるリンガとヨーニです。前者が男性器を後者は女性器をモチーフとしています。リンガはヒンドウ教における世界の創造、維持、再生を司る最高神とされるシバ神を、ヨーニは神妃シャクティを抽象化したものだそうです。ヨーニと呼ばれる円盤状の構造物の中央にリンガと呼ばれる円柱がそそり立つ構成になっています。シバ神を祀る寺院では寺院内の聖地に安置されていました。ガイドの話では祭にはリンガの上から水を注ぎ、ヨーニの溝から流れ出る水を容器に受け聖水として家へ持ち帰るそうです。チャンパ王国の宗教的聖域であるミーソン遺跡には多数のヒンドウ寺院がありそのいくつかでリンガとヨーニを見ることが出来ました。アンコールのタ・プロム寺  院をはじめその他のヒンドウ寺院でも同様に安置されていた形跡が残っていました。これを見たときになぜか明日香村の酒船石遺跡の小判形・亀形石造物が思い起こされ、ひょっとするとヒンドウ教も飛鳥時代に仏教、儒教とともに中国から伝わったのではないかと考えました。明日香にはマラ石や須弥山石、益田岩船、鬼の俎など類似する多くの謎の奇石が存在しています。ヒンドウの寺院は我々が想像する寺院(僧侶が修行する場)とは異なり、神殿、礼拝所、祭祀場を中心とした聖域といったもので、複数の石塔が立ち並びます。そのそれぞれにヒンドウの神々が祀られていたようです。仏教におけるブッダの舎利を納めたとされる仏舎利塔(ストゥーパ)もこれを真似たものではないかと想像します。最後にインド神話に登場するナーガと呼ばれる蛇神です。アンコールのヒンドウ寺院には回廊の両側に沿って寺院を守護するように蛇の石像があり、その頭部は7匹のコブラの頭を持ち、胴体は回廊の全長にわたるものです。また寺院の聖所への入り口の両側には日本の神社にある狛犬とそっくりな獅子像が対で護っています。さらに仏教の仏像には光背と呼ばれる唐草模様や火焔模様の装飾彫刻がありますがアンコールでは7匹のコブラの頭部が光背として仏像を守護している様子には改めて驚かされました。まさに仏教とヒンドウー教の融合といえるでしょう。今回の旅で改めて東南アジアの文化と日本文化の類似点を感じることが出来ました。了
9月5日ゼミ・テーマ13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
邪馬台国研究史―小川 孝一郎会員
6月13日世話人会13:00~17:00
 全水道会館4階小会議室(水道橋駅)
ゼミ会議室変更のお知らせ
11月7日以降のゼミ会場は下記に変更となります。
1、全水道会館(5階中会議室)の住所と電話番号
住所:文京区本郷1-4-1
 電話:03―3816―4196
2、アクセス
⦿JR・都営三田線水道橋駅下車:1~2分

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