古代史ニュース 2020.03.31 No.297

5月2日ゼミ(3月7日ゼミの振替)
①後期青銅器文明の崩壊と「海の民」後編
―亘 康男会員―
②天皇の国風諡号と関連名の意味
―井上政行会員―
①と②紹介文はニュース296号に掲載済みです。
4月4日講演会(鈴木靖民先生)の延期
3月7日ゼミ同様に、新型肺炎(新型コロナ・ウイルス)流行の予防措置として、秋以降に延期と致します。尚、4月講演会及び、6月以降のゼミ変更日は、決定次第、ニュースとHPに掲載します。
5月23日千葉北西部日帰りツアー中止
3月と4月ゼミ中止により、募集業務が不可能となりましたので、残念ながら中止とします。
私説 藤原不比等 Ⅷ  不比等以後
―増田 修作会員記―
聖武天皇、24歳に達して即位
文武天皇は15歳という当時としては異例の若さで即位したが在位10年、25歳で崩御した。文武天皇を継いで即位した元明天皇、右大臣、藤原不比等にとって、首皇子(聖武天皇)への皇位継承が最大の願望であったろう。
しかし養老4年8月(720年9月)、首皇子はこの時20歳に達していたにもかかわらず、藤原不比等は首皇子の即位を果たさないまま61歳で亡くなっている。ちなみにこの時、皇位継承の証である「黒作懸佩刀」は不比等から首皇子に空しく献納されている。首皇子はさらに4年後、24歳で聖武天皇として即位した。
 707年 文武天皇崩御、元明天皇即位
 714年 首皇子(14歳)、立太子
 715年 元正天皇即位
 720年 右大臣、藤原不比等、薨去(薨年61歳)
 724年 聖武天皇(24歳) 即位

その理由について、首皇子の場合、皇族以外の母、藤原宮子から誕生した皇子の前例のない皇位継承となるため、天皇即位がためらわれたと説明されることが多い。 しかし首皇子はすでに立太子を終えており、後に聖武天皇として即位した時の不改常典を引用した即位の宣命から聖武即位に大きな問題はなかったと思われるし、仮に反対意見があったとすれば、なおさら不比等の健在な間に即位にこぎつけておくべきであろう。
不比等は、聖武天皇即位と同時に、光明子の立后(さらに藤原宮子の立皇太后)を図ろうとしたのではないだろうか。この問題は後に長屋王の変として大きな政変となるが、不比等にとっても重要な政治課題であったことは当然であろう。しかし長屋王をはじめ政権中枢はこれに賛成せず、特に元明太上天皇、元正天皇は天智天皇の血統を引く生い立ちや、自らの皇位継承の実例から、皇族以外の皇后、皇太后の立后には強い反発があったと思われる。こうした政治状況が光明子の立后を押しとどめたばかりでなく、聖武天皇即位をさらに遅らせることとなったと考える。
長屋王の変
こうした後宮の状況から、即位の後、聖武天皇は生母藤原宮子、妃藤原光明子の地位の正統化をはかる。
724年 勅により生母藤原宮子を尊んで大夫人と称するよう命じたが、公式令に違背するとの長屋王らの奏言により、先勅を撤回して文書では皇太夫人、口頭では大御祖と呼ぶことを定めた。
727年 閏9月皇子、基王誕生。11月、立太子。
しかし728年9月、皇太子、薨。
729年 2月、長屋王の変。「私学左道、欲傾国家」
(私かに左道を学び、国家を傾けんと欲す。)との密告により、藤原宇合等の率いる六衛府の兵が長屋王邸を包囲、舎人親王、新田部親王等を糾問使として派遣。長屋王、吉備内親王、諸王は自殺した。
なお『兵防令』差兵条によれば20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要であり、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたって、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。

長屋王の変については、皇親派と目される長屋王と、光明子の立后による藤原政権の強化、安定化をねらう藤原氏との政治闘争との見方が一般的である。しかしそれより以上に、皇族以外の生母、妃を持つ聖武天皇その人の自らの地位の正当化の思いが一連の事件の背景にあると考える。
光明皇后、宮子太皇太后冊立
729年 8月、詔して藤原夫人(光明子、安宿媛)を皇后に立てた。光明皇后。
749年 7月、聖武天皇譲位して孝謙天皇即位。
同時に皇太夫人藤原宮子に太皇太后の称号を授けた。皇后あるいは皇太后でなかった夫人を太皇太后として立てるのはこの藤原宮子以外例がない。
生母藤原宮子について、聖武天皇は「久しく人事を廃した」生母であるだけに、少なくとも皇太后に準ずる正統性のある地位を欲した。しかし一方で皇統上の母元明天皇、元正天皇の意向もあり、元明、元正は皇祖母、宮子は皇太夫人、大御祖と呼ぶとして公式令に準拠しつつ、元明、元正ともバランスの取れた称号を与えることとした。その勅を即位と同時に詔したところに、聖武天皇の強い願望を見ることができる。
また藤原光明子の立后については、舎人皇子通じてわざわざその理由を述べている。
①聖武天皇即位から6年を経て、長い年月皇后がないのはよくないことである。この6年の間に皇太子も儲け、その母藤原夫人を皇后と定めた。
②天下の政のためには、(天皇がすべてを)一人で処理すべきではなく、それを内助する「後(しりえ)の政」がなければならない。
③臣下の女を立后することについては、仁徳天皇の磐之媛立后の例もあり、特別なものではない。
光明子の立后は、もしもの場合天皇に即位する可能性もあって、藤原宮子の皇太夫人呼称以上に大きな問題であるが、聖武天皇にとっては宮子=皇太后、光明子=皇后を備えて初めて聖武天皇の天皇としての正統性が明らかになるという考えが強かったと思う。そしてこの思いは、宮子、光明子の父である藤原不比等から聖武天皇に引き継がれたものだったのではないだろうか。
一方聖武天皇即位の宣命で元正天皇は聖武天皇を「我が子」と呼び、元明天皇から『天智天皇の立てお敷きになった「不改常典」に従い、ついには「我が子」首皇子に確かにあやまつことなく授けよ。』、と天下統治の政を譲られたと述べ、天智天皇、持統天皇から草壁皇子に連なる血統に強い連帯感を持っていた思いを述べている。元明、元正天皇にとっては、首皇子はその血統に連なる「我が子」だったのであろう。それだけに生母藤原宮子の皇大夫人いわんや皇太后などの呼称には抵抗が大きかったと考えられる。
皇太夫人であって、皇后、皇太后でなかった藤原宮子に749年、太皇太后の称号が与えられたのも、元正太上天皇がその前年に崩御したために初めて実現できたことだったのではないだろうか。 この立太皇太后には聖武太上天皇の執念ともいえる強い思いを感じてならない。
聖武天皇の後宮の取り扱いに最も厳しい意見を持っていたのは、長屋王よりもむしろ元明、元正天皇であったと思われる。長屋王は、吉備内親王との間の息子たち(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)が皇孫として扱われると定められた(従って一定の皇位継承権に関与する)地位にあり、藤原四兄弟との権力闘争は当然起こりうべきことであるが、その背景には聖武天皇(と藤原不比等)と元明、元正天皇の皇統継承に関する思いの差が根底にあったものと考えている。
私説 藤原不比等Ⅸ 藤原不比等の業績 これまでは藤原不比等について、年代を追って、不比等に関わる伝承や不比等が実行、実現したと思われる事績との関連から不比等像を描いてきた。 この章は大宝律令の制定を中心に、不比等の業績とされるものから直接的に不比等その人を描き出すことができればと思う。
大宝律令については日本書紀に刑部皇子、藤原不比等、粟田真人、下毛野古麻呂等により選定と名があげられていることから、藤原不比等が取りまとめの中心メンバーとして活躍したことは、疑いの余地はない。 特に次のような点で大宝律令はその後の日本の政治体制に大きな影響を与え、藤原不比等はそのグランドデザインを描いた一人と考えられている。
天皇、皇帝および太上天皇の称号
「天皇」の称号は大宝令に初めて規定され、その称号は、その他の称号と合わせて、儀制令天子條に、「天子は、祭祀に稱する所。天皇は、詔書に稱する所。皇帝は、華夷に稱する所。陛下は、上表に稱する所。太上天皇は、譲位した帝の稱する所。乗輿は、服御に稱する所。車駕は、行幸に稱する所。」と定められた。
「皇帝」については、「華は華夏なり。夷は夷狄なり。皇帝は華夷より称する御号なり。」として化内の民のみならず夷狄が天皇をお呼びする時に使うべき号であると定めている。
そもそも「皇帝」は秦の始皇帝が初めて用い、歴代皇帝も号して唐代に至っているが、唐の規定に明らかなように(「凡夷夏之通称、天子曰皇帝」(唐六典 巻四))、王権の国内支配権を表すとともに、その対外的な支配権をも標示する称号である。 そのため日本の大宝令においても意識的に中国王権と同じ称号を用い、 儀制令天子條、公式令平出條に見られるように、公式の法的意義を持った称号として令に規定し、かつ現実にも使用された。(続日本紀 天平十二年十二月条、天平勝宝八年十二月条など。)
また聖武天皇には勝宝感神聖武皇帝の追号があり、孝謙天皇には宝字称徳孝謙皇帝の尊号がみえる。 「天皇」の称号は、「皇帝」と同一の意味で使用され、大宝令の編纂者が、令の本文に一方で中国の「皇帝」の称号を採用し(例・養老儀制令太陽虧条 「凡そ太陽虧(か)けば、有司予め奏せよ。皇帝、事を視そなわさず。」)、他方では前代からの「天皇」の称号も使用した(例・養老喪葬令天皇服条 「凡そ天皇二等以上の親喪に服するに当たり、錫紵を服す。」)ことが知られるが、令によれば天皇の称号は特に詔書に用いられるものと規定されている。  公式令詔書式條は ㈠ 明神御宇日本天皇詔旨 ㈡ 明神御宇天皇詔旨 ㈢ 明神大八洲天皇詔旨 ㈣ 天皇詔旨の四つの形式を規定している。 第一の「明神御宇日本天皇詔旨」は、大事を唐国を含む蕃国使に宣する辞であり、第二の「明神御宇天皇詔旨」は、次事を蕃国使に宣する辞であると定めており、これらの詔書の形式が国際的意義を持ち、特に諸蕃に対する日本の王権を標示する形式であるとされている。
すなわち「天皇」の称号は、第一に王権の日本国内における主権を標示する称号であるが、同時にそれは国際的称号であり、特に朝鮮を諸蕃として従属させる日本の王権の国際的地位と権威を標示する称号としての側面を持ち、令の本文において「天皇」と「皇帝」を共に用いることにより「天皇」の称号が中国の「皇帝」と共通の性格と地位を持っていることを主張しているものである。(「古代国家論」石母田 正氏)
「太上天皇。譲位した帝の稱する所。」 唐には例のない太上天皇の規定が大宝律令において初めて設けられ、持統太上天皇という現実の事実を法典上の制度として条文化したことは、大宝律令編纂の一つの目的であった。(「日本古代天皇制の研究」  岩尾芳久氏)
官人登用
大宝令では、選叙令、考課令によって官人登用の規定が定められた。それによれば、天武11年の詔には「凡そ諸の考選すべき者は、能く其の族姓及び景迹(きょうじゃく)を検して、方に後に考せよ。もし景迹、行能灼然たりといえども、其の族姓の定まらざる者は考選の色に在らざれ。」としてその族姓が大きな評価の基準とされていたが、大宝令ではこの族姓に関する規定が除かれた。
このような官人登用の条件の変化について、特に族姓が考選の条件から除かれたことについて、伝統的な氏族主義を否定し、個人の徳行才用主義(本人の徳性を中心にして,才能の高い者を任ずること)を貫徹したというように説かれることが多かったが、実はそうではなく、具体的な選考方式によって自ずから上流氏族の特権が生かされるような仕組みが出来上がったため、氏族の大小というような、律令的でない要素を規定の表面に掲げる必要がなくなったというにすぎない。 (「律令貴族論」  関 晃氏)
上流氏族の特権
大宝から奈良時代の末までに親王、諸王以外で三位以上(議政官=太政官において国家の基本政策を決する位階)に叙位された者の出身氏族は、次の 21氏(皇族、朝鮮王族を除けば15氏)にすぎない。一方五位以上に昇りうる資格を認められていた氏族は、真人・朝臣・宿禰・忌寸の諸氏、およそ 200氏にのぼり、律令体制のもと、官人の登用は広く行われているが、三位あるいは五位以上の上流貴族はごく限られた氏族によって独占される仕組みが出来上がっている。しかも上流貴族と一般官人の報酬の差はきわめて大きく、身分制の固定化が当然に進むような仕組みとされていた。
・三位以上の出身氏族(大宝~奈良朝)   合計21氏
イ.皇族から出た新しい氏  丹比、橘、文室、氷上
ロ.朝鮮王族の後裔     百済王、高麗
ハ.特例         吉備、弓削
ニ.倭朝廷以来の雄族    阿倍、大伴、石上、藤原、紀、粟田、高向、小野、中臣、巨勢、大野、石川、佐伯

結論として、大宝律令はこれまでの氏姓制度に代えて、広く人材を集め、これを官に登用することによって国家としての活力を強化することを目的の一つとし、また現に実行したが、一方前代からの氏姓制度により、特に一部の名族の既得権益を強固に守り、蔭位制、給与体系などによる上流貴族階級の保護、身分制の固定化も律令制度の一部として包含するものであった。  大宝律令はそれまでの氏姓制度を改革する革新的制度と一般にとらえられているが、官位令、考課令、選叙令など官人の登用、昇進などの人事制度に関して言えば、保守性の強いものであったといえよう。(「律令貴族論」  関 晃氏)
律令と外交方針=「東夷の小帝国」・日本大化の改新および律令制国家の成立の一つの要因は、日本が唐帝国に対して自らも「東夷の小帝国」(後の北宋の徽宗皇帝の書状に「爾東夷之長、実惟日本之邦」とある。)として対抗しようとする所にあった。 その小帝国を維持することは、朝鮮出兵を賭しても失ってはならないものと意識され、ことに大宝令の制定はそうした体制を国際的に法制化するところにその意義があるものと自覚されていた。
このため大宝令では、天皇又は国家の統治権の及ぶ範囲を化内、その外部の領域を化外として区別し、さ らに化外を隣国、諸蕃、夷狄に区分し、諸蕃と夷狄に君臨する小帝国=「日本国」として、隣国=「大唐国」と対等な外交関係を結ぶ地位を獲得しようとする意図を、儀制令天子條における天皇、皇帝の称号に関する規定、公式令詔書式條における諸外国に対して下す詔書の形式の規定、戸令における化外人の取り扱いの規定などに表現した。 しかしながら日本は唐の冊封体制の外部に位置するいわゆる「不臣の客」ではあるが、歳貢は免除されていてもあくまでも唐への朝貢国であり、蕃夷の一国として処遇されたということについては朝鮮諸国と変わらない。 これが唐を中心とした東アジアの国際的秩序のなかに組み込まれた日本の客観的な地位であった。
すなわち古代日本は、倭国内部の王権を確立しつつ、一方では南朝鮮を朝貢国として隷属させ、他方では中国諸王朝に蛮夷の一国として朝貢するという複雑な二重の国家構造を実現していた。この頃の政権を担当していた古代貴族の、大陸に対する鋭い関心、敏感な政治的対応、大陸文化の貪欲な受容、渡来人の活用などの国際意識は、後世の封建社会の閉鎖的な支配層の国際意識の欠如からは想像もできないが、東夷の小帝国を目指す国家目標がそうした国際意識を作り上げたものであろう。(「日本古代における国際意識について」 石母田 正氏要約)
藤原不比等を中心とする政権中枢部はそのような意味で、十分に国際的であり、日本の国際的な地位を十分承知したうえで、大宝令を制定したが、特に新羅に対する対抗意識、優越意識がその根幹をなすものだったのではないだろうか。唐との対等な外交はきわめて困難なものとしても、新興新羅に対してはあくまでもこれを蕃国、日本への朝貢国とみなす考え方が、大宝令の外交に関わる規定を形作っている。
この「東夷の小帝国」としての「大国主義」、特に朝鮮半島諸国を諸蕃とみなす「優越主義」は、この頃固定化され、後年に至るまで引き継がれることとなった。
一方新羅は半島統一を果たす強国となりながら、自国の安全保障のために唐の冊封国としての立場を維持し、ために自国の年号・暦を採用することもなく、また独自の律令を制定することもなかった。(新羅法興7年(520年)正月、頒示律令、始制百官公服・朱紫之秩(三国史記)の記事があるが、本格の律令とは考えられていない。) 日本と新羅の全く異なる安全保障戦略がその後の国の形にかかわっている。
以上の通り、大宝律令を中心とする業績の内容から、前代からの豪族の既得権益を強固に守る保守主義者としての、また「東夷の小帝国」を標榜する帝国主義者としての藤原不比等像がうかがわれる。完。
6月6日ゼミ・テーマ13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
律令とローマ法―古代法の東西比較―藤田 一郎
4月11日世話人会13:00~17:00
全水道会館4階小会議室(水道橋駅)
(4月から会議場所が上記に変更になります)

ゼミ会議室変更のお知らせ
本年11月7日以降のゼミ会場は、水道橋駅の全水道会館(5階中会議室)に変更となります。
1、全水道会館の住所と電話番号
住所:文京区本郷1-4-1
電話:03―3816―4196
2、アクセス
◎JR・水道橋駅で下車し東口(お茶の水駅寄り)改札口を降りて神田川を渡り北へ徒歩2分
◎都営三田線水道橋駅下車A1出口徒歩1分

3、1階に喫茶店NEW YOKER‘S CAFÉ。

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