古代史ニュース 2020.02.29 No.296

ゼミ会議室変更のお知らせ
諸般の事情により、ゼミ会議室を本年11月7日ゼミ以降、下記の通り変更するのでご案内します。
1、全水道会館(文京区本郷1-4-1)4階中会議室
  TEL:03―3816―4196
2、アクセス:JR・都営三田線水道橋駅徒歩2分
3、詳細はHP「全水道会館」で検索して下さい。
後期青銅器時代文明の崩壊と「海の民」・後編
―3月7日ゼミ紹介文:亘 康男会員記―
後期青銅器時代文明はBC1225年ころまでは順調に繁栄を続けてきたが、BC1177年ころより消滅に向かい始め、BC1130年にはほぼ消失した。この間,二大帝国の一つであったエジプトは、二度も「海の民」の侵攻を受けた。これを以って、専門家の間で「海の民」は後期青銅器時代崩壊の犯人とされ、便利なスケープゴートとされてきた。しかし現在では、遺跡・文献の発掘、調査、研究の成果を踏まえて、主たる客観的事実として次のように考えられている。(1)前15世紀から13世紀にかけて、エーゲ海/東地中海地域におけるミュケナイ、ミノア、ヒッタイト、エジプト、バビロニア、アッシリア、カナン、キュプロスなどの諸国は、それぞれ独立を保ちながら、特に国際交易ルートを通じて、絶えず相互に作用し合っていた。(2)前1177年からその直後にかけて、エーゲ海,東地中海、エジプト、近東の多くの都市が破壊され、当時の人々が知っていたような後期青銅器時代の文明と生活は終わりを告げた。(3)その原因に関しては、現在のところ反論の余地のない証拠は提示されておらず、「誰」または「何」がこの惨事を引き起こし、ひいてはこれらの文明の崩壊と後期青銅器時代の終焉をもたらしたのか、不明のままである。
崩壊の原因として考えられる要因は多くある。「地震嵐」があったことは事実である。「飢饉」がエーゲ海や東地中海地域を襲ったことは、文献に記録されている。「干ばつや気候の変化」も科学的に証明されている。しかしこの地域では、干ばつや飢饉、地震などは何度も起こっているが、その都度立ち直ってきている。「内乱」は、ギリシャその他の地であった状況証拠が見つかっている。しかしこれもその都度社会は無事に乗り越えてきていて、今見られるような長期的な影響は例外的である。「侵入者」(というより新参者?)が、エーゲ海地域、小アジア西部、キュプロス、或いはそのすべての地域から押し寄せたという考古学的証拠は、レヴァント地方(ウガリトからラキシュまで)で見つかっている。そこでは、破壊され放棄された都市もあれば、破壊後に再住された都市もあり、或いは全く破壊を受けてない都市もある。「国際交易ルート」は明らかに一時期、完全に遮断はされないまでも、損害を受けている。しかし、それが様々な国や都市の文明それぞれに、どの程度打撃を与えたかは全くわからない。ミュケナイの場合のように、外国からの輸入品に過度に依存していた文明もあったことは確かだ。どうやら後期青銅器時代文明の崩壊という大事件の原因として、どの単一の要因だけを取り上げてみても、不充分なようだ。であれば、これ等全ての要因が崩壊に作用したと考えるのが最善だろう。今ここで見ている現象は「システム崩壊」、即ち一連の災厄が「乗数効果」を介して関連しあい、ある要因が別の要因に作用して、それぞれの効果が増幅され、その後に「ドミノ効果」が起こり広域な破壊をもたらした、ということのようだ。しかしながら、、この複雑な問題の全てを理解するには「システム崩壊説」では単純すぎて不充分であり、より精密な変化の究明には「複雑性理論」(Complexity Theory)が必要かもしれない。この理論は数学及びコンピューター科学の分野から生まれた学問で、複雑な「系」(システム)を研究目的とする。交通渋滞、株価急落、癌などの疾患、環境変化などの問題から、最近では経済、国際関係、戦争問題などにも応用されているが、考古学の分野ではごくまれである。このアプローチが向いているのは、相互に作用し合う事物(objects)或いは行為者(agents)を含むシステムが関わっている問題に対してであり、目下の問題でいえば、後期青銅器時代に栄えた様々な文明(ミュケナイ、ミノア、ヒッタイト,エジプト、カナン、キュプロスなど)がそれに相当する。複雑性理論は次の諸点を前提としている:・オブジェクトの行動は過去の経験をフィードバックして「修正する」・「生きている」(進化)・「開かれている」(環境の影響)。また、このようなシステムからは、おおむね予想外な、時には極端な現象が生じるが、それがいつ起こるかは予測できない。システムが複雑になり、その構成要素間の相互依存の程度が高まるにつれて、システム全体を安定に保つのが難しくなってゆく。これを「超干渉性・hyper-coherence」という。後期青銅器時代のエーゲ海地域・東地中海地域には、個々の社会政治システムがあり、様々な文明があり、それらがますます複雑になり、崩壊の危険も高まっていたらしい。同時に交易ネットワークという複雑なシステムも存在していた。その必須の一部に変化が起こると途端に不安定化しやすくなる。後期青銅器時代の文明はグローバル化され、モノやサービスを互いに依存しあっていたので、一国に変化が起きるとそれが全体を不安定化させる恐れがあった。また、後期青銅器時代の王国、帝国、社会はそれぞれ別個の複雑な社会政治システムを保持していたので、その内的なダイナミズムがさらに複雑さを増す方向に進み、システム崩壊の危険を増大させたであろう。それに並行して交易ネットワークという複雑なシステムが存在していて、そこに必須の一部のどこかに変化をみせると、事態は途端に不安定化する。後期青銅器時代の末期は混沌とした、しかし緩やかに崩壊が進んだ時代であったと考えるほうが適当かもしれない。おそらく後期青銅器時代の崩壊には、単一の原動力や引き金はなく、多数の様々なストレス要因が人々を駆り立てて、変化してゆく状況であったろう。研究の現状では、そもそも複雑性理論を応用する際に必要となる変数の全てが判っているのかどうかさえ不明であり、またどの変数は重要でどの変数は局地的には重要だが全体的には影響がほとんどない、などの仕分けも不充分である。しかし重要なことは、この理論は「新たな認識の枠組」を与えてくれる。後期青銅器時代末に存在していた多数の要因が、それまで数世紀にわたり様々なレベルで存在し、非常にうまく機能していた処の国際的なシステムを不安定化させ、最終的には崩壊に導いたという可能性に目を向けさせてくれることだ。干ばつが飢饉をもたらし、ついには「海の民」の移動を促し、それが大混乱を起してこの広域な文明の崩壊をもたらした、という単純な線型展開は不正確で、現実は単一の原動力や引き金があったわけではなく、多数の様々なストレス要因が、人々を駆りたてて、変化してゆく状況に対応しようと、それぞれに異なる行動を起こさせたのだろう。複雑性理論には非線型の進行過程を視覚化し、また単一の原動力ではなく、一連のストレス要因を視覚化できるという強みがあり、特にこの点で、後期青銅器時代末の崩壊を説明するのに有利である。それだけでなく、この破局の研究を続けるために進むべき方向をも指し示してくれる。以上。
天皇の国風諡号と関連名の意味
―3月7日ゼミ紹介文:井上 政行会員記―
 昨年8月3日に「記紀にみえる神名および天皇名の意味」と題して、漢文体で書かれた古事記および日本書紀のなかで、いまだにその意味が判らないとされている縄文語で書かれている事項のうち、とくに神名および天皇名を主たる対象として、その意味を解明し、世界に誇る日本の古い史書の内容のできるかぎり完全な理解を図る試みを行った。残念なことに時間がなく、用意した資料の最後の部分(5 第四類)および参考資料(1古代神話の神名(抄)・2天皇の国風諡号(抄))についての説明ができなかった。
今回あらためて説明ができる機会が与えられたので、題名を「天皇の国風諡号と関連名の意味」に改め、天皇の国風諡号の意味を前回は初代神武天皇から第九代開化天皇までであったのを、第五十四代仁明天皇まで追加して掲載することとした。これによって国風諡号のほぼ全容が明らかになったと考える。
また、国風諡号と関連名に関連する諸問題について、すでに前回いくつかの指摘(欠史八代をもたらした理由、ハツクニシラスの意味など)を行なったが、今回念のためいくつかの問題点を整理補充して示すとともに、天皇の親戚または親族で「倭(やまと)」の名を与えられた「倭彦王」・「倭彦命」・「倭姫王」・「倭姫命」の名がかなり多く見られるが、それぞれの事績によって意味が全く異なるものがあるーそれぞれ語源が異なる(「イア・マト」と「イア・マタウ」)が、ピジン語からクレオール語化した後の発音は同じ「ヤマト」であるーものがあること、このことは、他の人間の名、他の地名や事柄の名についても同様であることを特筆したいと考える。
このことは、記紀を編集する際、編集者が漢字・漢文については広い知識を有していたが、縄文語の意味については殆ど知らなかったことによるものと思われる。このことによって、漢文体で書かれた地の文章の内容に、我々も、我々の先哲も気が付かなかった何らかの問題が生じている可能性も否定できないのではないかと危惧する。  以上。
私説 藤原不比等 Ⅶ 不改常典(あらたむまじきつねののり)―増田 修作会員記―
1.不改常典の意味
日本が律令体制への移行を進める頃、天皇家はその皇位継承をめぐって大きく揺らいでいた。日本書紀、続日本紀その他の資料はその間の事情を次のように伝える。
・686 天武天皇崩御。 大津皇子、謀反の罪により
   刑死。
・689草壁皇子薨去。 
・690持統皇后、天皇即位。 高市皇子、太政大臣。
・697軽皇子、皇太子。この時、軽皇子の立太子をめぐって皇族間に論争があったが、古来より父子継承が天皇位継承の基本とする葛野皇子の主張が正当とされ、軽皇子立太子。持統天皇、軽皇子に譲位。文武天皇、即位。
・707文武天皇、崩御。元明天皇、即位。この元明
天皇即位の宣命に、「持統天皇は皇位を草壁皇子の嫡子の文武天皇に譲り、(太上天皇として)相並んで、国家統治にあたられた。これは天智天皇が「不改常典」としてたてられた法に従うもの。」と皇位継承の正統性の根拠を述べている。
・714首皇子元服。公式に立太子。
・715元正天皇即位。
・723聖武天皇即位。この聖武天皇即位の宣命に、元正天皇は「もともとこの皇位は、文武天皇が亡くなった時にあなたに与えたものであるが、あなたが幼なかったために、肩代わりとして元明天皇に与えたものです。元明天皇はその皇位を私(元正天皇)に与えられる時に、天智天皇のたてられた「不改常典」に従って、確実に、間違いなく、私の孫(聖武天皇)に皇位を引き継いで下さい、とおっしゃいました。」と述べている。
・749孝謙天皇即位。この時譲位した聖武天皇の詔に「元正天皇が仰せられるには、天智天皇が「不改常典」として初めて定められた法に従い、この天皇位をあなたが継ぎなさいと言われて皇位を継いだが体が耐ええなくなったため、法に従って朕の子である阿倍内親王に授ける。」と述べている。

「不改常典」は、その趣旨について諸説あるが、その言葉が使われた状況、あるいは結果からみて次のような内容を持つ法的規定であると考える。
❶天智天皇の詔をその根拠としていること。
不改常典の言葉が、初めて用いられたのは707年の元明天皇即位の宣命においてであり、この時から例外なく「天智天皇の、立て賜い、敷き賜える法」と述べられていることから、天智天皇が詔したものであると考えるべきであろう。  この時は天智朝を去ることおよそ37年、天智天皇に関する記録や記憶がまだ十分に残されている時期である。  即位の宣命という、最も重大な公式の文章の中で皇位継承の名分として用いるためには、天智天皇の詔あるいはそれに近い成文化されたもので、当時の人々に承認されたものでなければ、その用をなさないのは云うまでもない。 従って「不改常典」の言葉は、天智天皇の詔として成文化された言葉であったものと思われる。
❷直系主義による皇位継承法であること。
不改常典の言葉は、文武、聖武、孝謙天皇、後に桓武天皇の即位にあたって、その正当性を主張するうえで使われており、一方直系継承でない天武、持統、元明、元正、淳仁、称徳、光仁天皇即位の場合には用いられていない。 すなわち不改常典が直系皇位継承法を、また天智、持統、草壁と続く系統の皇位独占へ向けての意志を意味するものであることは明らかである。
❸直系皇位継承法の目的、意義が理解されていたこと。
天智天皇までの伝統的な皇位継承法は、兄弟継承といわゆる大兄制を組み合わせたもの、すなわち嫡后あるいはそれに準ずる后妃から生まれた者であれば、前帝の兄弟でも子でも皇位継承の資格があるというものであった。 不改常典はその伝統的慣習法に制限を加え、直系の子または孫に皇位継承者を限るものである。  皇位継承者の決定は極めて重大な問題で、しかも支配階級を構成する貴族層全体の立場や個々の利害に密接な関係を持つ事柄であるから、直系主義をとることの意義、目的が十分に理解され、賛同を得られていない限り、それが皇位継承の名分として認められることはあり得ないと考えられる。
目的の第一に挙げられるのは、天皇の権力の強化による中央集権的国家の建設である。 従来の慣習法の下では、皇位継承者の決定に際して、それを取り巻く諸豪族の意向が非常に大きな要素となった。 崇峻天皇、舒明天皇など多くの事例があげられよう。 これに対し、直系主義による皇位継承の場合は、天皇が専権的に、皇位継承者や譲位の時期を決定することができる。  天智天皇が「不改常典」の詔を発したのも、大友皇子への皇位継承を望んだということもあろうが、白村江の敗戦以来の課題である、唐、新羅に劣らぬ中央集権的国家の建設へ向けての天皇権力の強化ということに本質的な目的があったものと思う。
第二には、第一の目的と関連するが、皇位継承にともなう騒乱の防止があげられよう。 天智、天武、持統朝だけを見ても、孝徳天皇の皇位継承に伴う古人大兄皇子の謀反、天武天皇と大友皇子の壬申の乱、草壁皇子に対する大津皇子の謀反などの事件があった。 こうした騒乱の防止は特に持統、元明、元正と続いた女性天皇にとって大きな願いだったのではないだろうか。
「不改常典」は、こうして文武天皇、聖武天皇、孝謙天皇の皇位継承の名分として、即位の宣命の中にうたわれることとなった。すべての皇族や中央貴族層がこの直系主義による皇位継承に賛成であったのかどうかは疑問であると思う。 しかし天智天皇の詔であるという権威、そしてなによりも中央集権国家建設のための天皇権力の強化という持統天皇そして藤原不比等の掲げる大義名分には反対することができなかったのではないか。
2.不改常典と天武王統の悲劇
「不改常典」の解釈については以上のように考えているが、いずれにせよ、天皇位継承にあたっての政争や混乱を防ぐための法的根拠として、時の政権中枢によって主張されたものであるはずだが、結果的に孝謙朝以降皇位継承に関わる騒乱が頻発し、草壁皇子の子孫を除く天武天皇の親王・諸王のほとんどがこれに連座して滅亡した。
こうした皇位継承に関する騒乱の頻発は偶然ではなく、「不改常典」を根拠として草壁皇子の血統に限った皇位継承に対する不公平感とともに、知太政官事制、「八十一例」による大臣就任条件の規定化によって議政官への皇族不補任もあって、親王・諸王に強い閉塞感を与え、それが天武王統の皇子、それに加担する貴族の反乱を招くことになったのではないか。
「不改常典」による一連の皇位継承は、あまりに犠牲が大きく、失政と言わざるを得ないのではないだろうか。
・「勝宝(天平勝宝749年~)より以来、皇極継ぎなく、人彼此を疑いて、罪し廃せられる者多し。 天皇(光仁天皇)深く横禍の時を顧みてあるいは酒をほしいままにして、迹を晦ます。 故を以て害を免かるること、あまたたびなり。」(「続日本紀」) ・「勝宝以後、宗室枝族、罪に陥る者多し。邑珍(大市王)髪を削りて沙門となり、以て自ら全うせんことを図る。」(「続日本紀薨卒伝」)(続く)
5月ツアー「千葉北西部日帰り」のご案内
5月に「千葉北西部」の日帰りツアーを実施します。
JR西船橋駅に集合後、船橋市の縄文遺跡/博物館、市原市の古墳、遺跡を見学して、JR五井駅で解散する内容です。多数の皆様のご参加を心から期待しております。
★ツアー概要
1.日程 5月23日(土)日帰り
2.主な探訪予定地
☆飛ノ台史跡公園博物館
7千年前の縄文早期の飛ノ台遺跡からの出土品に加え、1万年前の取掛西貝塚の剥ぎ取りなど、船橋市内の遺跡の出土品を展示。
☆加曾利貝塚博物館
加曽利貝塚は7千年前から3千年前まで続いた日本最大級の貝塚で、広い公園内に貝層断面観覧施設、博物館、復原された縄文集落などがある。
☆上総国分尼寺跡/展示館
上総国分尼寺跡は、市原市が古代上総国の政治、文化の中心地であったことを象徴する歴史的文化遺産。中門、中門と金堂を結ぶ回廊が復元公開されている。
☆その他
他に、武蔵国分寺跡に次ぐ規模の上総国分寺跡、国分の瓦を焼いた南田瓦窯跡、「王賜」銘鉄剣を出土した稲荷台1号墳、東日本最古の古墳とされる神門5号墳を探訪する予定。
3.募集 2020年3月、4月のゼミ会場にてツアー案内書および申込書を配布予定
4.幹事:岡安良宣、倉重千穂会員。
5. 問合せ先:
メール:mxl03254@yahoo.co.jp(岡安)
電話:080-9271-3717(岡安)
今秋の国内ツアーお知らせ
丹後半島とその周辺2泊3日(10月中旬から下旬)
1、テーマ:丹後王国と丹後の国風土記
2、見学候補地を会員の皆様より募集します。
3、詳細は3月ゼミ会場にて磐城会員より説明。
4月4日ゼミ・テーマ13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
倭国のありさまと王権のなりたち―鈴木靖民先生
3月14日世話人会13:00~17:00
 機械振興会館6階会議室(神谷町駅)


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