古代史ニュース 2020.01.31 No.295

「中国 長城 三千年史」
2月1日ゼミ紹介文―鈴木 慧会員記
半世紀前、高校の授業で学んだ長城に関して記憶している事柄は次の通りである。①万里の長城を初めて築いたのは秦の始皇帝である。②中国北辺に居住する遊牧民の侵入、略奪に対する防衛のために築かれた。③実際には長城は遊牧民の侵入防御に役立つことは なく、簡単に破られ無用の長物の代表例であった。これらの事柄の虚実を確かめるべく長城を巡る歴史を学んだので発表、紹介することとした。発表内容を順を追って紹介する。
1.長城建設はいつ始まったか:春秋戦国時代にさかのぼるが、記録に残る長城建設については、それが単なる城砦だったか、長城だったか、あるいはその記録が信頼に足るものか否か、諸説ある。
2.中国軍事史における国土防衛の3つのタイプ:各王朝が採った防衛軍事戦略をパターン化し分類すると3つになる。加えて広い国土の防衛に必須だったのが通信・連絡システムだった。
3.長城建設の始まり:戦国時代、戦国の七雄と呼ばれた各国は国土、首都を防衛するために長城を建設した。同時に北辺に接する国々は遊牧民の侵入を防ぐための長城を築いた。
4.秦の長城建設、漢の長城延伸:秦の始皇帝、漢の武帝は匈奴を北方へ追いやり、以降故地回復を狙い南下せんとする匈奴と死闘を繰り返す。ついに長城は万里を超えた。また、長城には、大小の城砦、通信施設が付設され、後の明代に続く防衛システムのひな型がつくられる。
5. 三国、五胡一六国、南北朝、隋代の長城:この時代、北魏、北斉、隋の各王朝が長城建設に取り組んだ。
6.唐、宋、金、元代の長城:この時代、熱心に長城建設に取り組んだのは金のみである。その長城は界壕とよばれ、長城に含めるべきでないとする意見もある。
7.明の長城:第四代永楽帝になって長城建設が進められる。現在我々が目にする、あるいは頭に描く長城の姿は明代に築かれたものである。その防衛システムについて城砦設置内容、兵員数等具体的に紹介する。
8.終わりに:長城の歴史は中国王朝概史でもあった。幾つか特徴があることに気づいたので紹介する。以上
「炭素14年代測定法で分ったこと分らないこと」
❶さきたま稲荷山古墳鉄剣銘文の辛亥年
❷弥生時代の始まり
―2月1日ゼミ紹介文:相澤 省一会員記―
 歴史的な出来事を語るには「いつ When」が欠かせない。しかし文字資料の乏しい時代になると、西暦年の「いつ」を特定することは容易ではない。我が国では5、6世紀以前の時代がそれに相当するだろう。埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた「辛亥年」も471年か531年かで論争となった。さらに時代が遡って、弥生時代の始まり(水田稲作がいつ始まったか)についても、文字資料が全くないために、遺跡から出土した土器や青銅器などから年代を推定したが、必ずしもそれが正確である保証はない。
 「炭素14年代測定法」は上記のような文字資料に乏しいあるいは無い時代の遺物の「いつ」を明らかにする理化学的方法である。70年ほど前にシカゴ大学のWillard F. Libbyによって考案され、その後様々な改良が施されてきた。初期には放射性の炭素14から放出される放射線(ベータ線)を計測するしかなく、測定には1試料当たりグラムオーダーの炭化物試料を必要とし、測定時間も1週間以上、しかも試料の前処理や計測には特別なスキルが必須であった。そのため放射線に関する知識とともに測定技術の“腕を磨いた”極少数の限られた研究者しか年代測定はできなかった。
 劇的な変化は1970年代に起こった。試料中の炭素14の個数を直接数える質量分析法が年代測定に使えるようになったことによる。これによって1試料は数ミリグラム、測定時間は数十分で済むようになり、パソコンによる装置制御なども相まって短時間に多数の試料の分析が可能になった。炭素14年代測定者は使われ始めた初期と現在では全く異なる分析機器を用いていると言って過言ではない。今回のゼミでは初めに「炭素14年代測定法」の原理を説明し、測定法改良の歴史的な流れ、そして現在の方法が抱える問題点等を解説する。
 「炭素14年代測定法」を理解するには、文系の方のみならず理系のほとんどの人たちにとっても詳しく学ぶことのなかった放射性同位体の知識が不可欠である。放射性同位体は英語名がラジオアイソトープ(radioisotope)で、それ自身不安定であり、人間の手を借りることなく、アルファ線やベータ線、ガンマ線などの放射線を自発的に放出し、別の安定な同位体に変化する性質を有する。天然に存在する放射性同位体や宇宙から降り注ぐ放射線を可視化した霧箱の映像を紹介し、さらには2011年3月に福島第一原発から飛散した人工の放射性同位体(セシウム134及びセシウム137)が2020年2月1日現在どの程度残っているか、炭素14年代測定法の原理となる計算式を用いて算出した数値も示しながら、この年代測定法の理解を深めたい。
❶さきたま稲荷山古墳鉄剣銘文の辛亥年
 1978年9月19日の毎日新聞夕刊でスクープされた、稲荷山古墳出土鉄剣銘文に刻まれた115文字の解読文がもたらした衝撃は2003年の弥生時代始まりのニュースにも劣らぬものだった。なかでも冒頭に書かれた「辛亥年」を471年あるいは531年のどちらとみなすかによって我が国の古代史の解釈や理解が大きく異なることから、古代史に関心を持つ人たちにとって銘文の文字解読は重大な意味を持っていたと言ってよい。銘文発表直後から古代史研究者や考古学者は471年と531年のいずれかをめぐって自説を発表し、今日に至っている。471年説が優勢のようではあるが、531年説をとる人たちもおり、発見から40年近く経った今日の教科書の記述もどちらかに断定はしていない。このような状況下で、昨年(2018年)11月18日に行なわれた古代史教養講座の「群馬西部日帰りツアー」に参加したところ、ツアーの案内書につぎのような記述があった。
 《古墳時代後期に榛名山で少なくとも2度の大噴火があった。最初が5世紀末から6世紀初頭ごろで、次が6世紀中頃である。 (中略) 群馬大学のグループは、渋川噴火の火山灰中の倒木のC14AMS分析のウィグルマッチング解析から、渋川噴火の時期をAD491-500年としている(群馬大学教育学部紀要自然科学編第63巻2015)。この報告の中で、金錯銘鉄剣を出土した稲荷山古墳が渋川火山灰(FA)に覆われていたことから、鉄剣の「辛亥年」は471年に当たる可能性に触れている。》
 もしこの論文に記載の内容が正確で何の疑問点もなければ、稲荷山鉄剣銘文の辛亥年は炭素14年代測定による理化学的方法で471年に(ほぼ)確定したと言ってよい。ツアーの一週間後、論文(紀要)を入手して当該箇所を読むと、稲荷山古墳は渋川火山灰(FA)に覆われていたと明記されている。そこで論文に記述されている内容を詳細に検討し、稲荷山古墳の調査報告書(1980、2018)などを参考に論文の結論の妥当性を検証した。
❷弥生時代の始まり
 「炭素14年代測定法」なる用語を多くの人の目や耳に初めて届けたのは2003年5月20日のマスメディアによる報道である。弥生時代(水田稲作の開始時期)は従来説の紀元前4~5世紀に始まったのではなく、それをはるか500年も遡る紀元前10世紀だったとする国立歴史民俗博物館(略:歴博)研究者らの発表だった。歴博の研究者は弥生時代初期の遺跡から出土した土器に付着していた炭化物をAMS(加速器質量分析計)による炭素14年代測定法で分析して年代値を得た。その値を新聞やテレビなどを通して一般の人たちに公表したのである。衝撃的なニュースで、土器や青銅器などによる編年研究を行なっていた考古学者から疑いの目で見られた。
 その後1年ほどの間に考古学関係の学会誌や商業誌はこぞって”弥生時代の始まり”に関する論文を集めて特集号を編集した。その後もこの問題は賛否両論の論文が考古学関係の書誌に掲載され、2010年頃には歴博に対する批判論文が特集として編纂されてもいる。さらに直近(2019)では『考古学ジャーナル』No.729(8月号)で「弥生時代の始まり」が特集として編集された。これらの論文を解説し、最後に今日の中学校や高校の歴史教科書(中学校:平成27年3月31日検定済、高校:平成29年3月7日検定済)で弥生時代の始まりがいつと記載されているか紹介したい。以上。
*) 早川由紀夫・中村賢太郎・藤根久・伊藤茂・廣田正史・小林紘一(2015) 榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定. 群馬大学教育学部紀要自然科学編.第63巻,35-39頁. 〆。
上毛野の古墳を訪ねて考えたこと
―山田 英夫会員記―
一昨年11月18日群馬西部日帰りツアーに参加する機会を得、古代石碑の最古群:上野三碑(今回は金井沢碑と多胡碑)、5世紀の保渡田古墳群、6世紀の綿貫観音山古墳、日本のポンペイ:中筋遺跡、上野国分寺を訪問。充実したプログラム、詳細な資料、適切な運営、美味な地元の昼食弁当と上野毛の古代を満喫しました。幹事の努力に深く感謝します。
本稿では保渡田古墳群・八幡塚古墳、綿貫観音山古墳から見えてくる上毛野と畿内の状況を探ってみたい。
1.上毛野(群馬)の古代
 上毛野は古代東国の入り口で東山道を通じて東西の人々、物流、文化が行き交う場所であった。古墳時代初期に東海、伊勢からの移住民を中心に広大な榛名山の扇状地に灌漑工事で多くの農地、牧場が開発された。その経済力・組織力を背景に首長層の居館、古墳が数多く築造された。平成24年の調査で13,249基以上の古墳が確認され、まさに東国の古墳大国が上毛野である。
また5世紀には東国に渡来人文物が50カ所以上発見されているが、その50%が上毛野に局在し、渡来系の人材、技術、文化が集中していたことが明らかである。
2.上毛野の古墳
 4世紀前半に東国最大の前橋天神山古墳(前方後円墳、全長129m、3段築成)が築かれた,三角縁神獣鏡2面を含む5面の鏡、武具、工具など初期ヤマト王権古墳と同様の副葬品を有し、壺の供献から4世紀初頭の桜井茶臼山古墳との類似性が考えられる。ヤマトの流行を僅か20-30年で取り込んだことになる。
5世紀中葉には太田天神山古墳(前方後円墳、全長200m、長持型石棺)、5世紀後半には保渡田古墳群、6世紀後半には綿貫観音山古墳と魅力ある古墳が次々と築造された。大和中心史観の研究者はこれらの前方後円墳はヤマト王権が許認可権を持ち、工人集団を派遣・築造ストーリを展開するが、青木敬氏によると古墳の築造方法が東西でまったく違うことが明らかにされ、この話が成り立たたないことが明確になった。(一部の古墳では西日本工法も見られるが点在するに止まる。
3.保渡田古墳群
榛名山麓井野川流域に築造された井出二子山古墳(5世紀第3四半期,108m),八幡塚古墳(5世紀第4四半期、96m)薬師塚古墳(5世紀末から6世紀初、105m)の3代に渡る前方後円墳古墳からなり、八幡塚古墳が調査・復元されている。八幡塚古墳は①2重の周濠、4つの円形中島(造り出し)を持つ類例のないユニークかつ美しい古墳である②6000体の円筒埴輪、100体の形象埴輪が発掘され、中堤には54体の物語性のある埴輪群を形成し、かつユニークな造形の優品が多く、6世紀に東国に大流行する形象埴輪の諸端をなす。③埋葬施設として大型の刳り抜き舟形石棺を持つ(但し畿内のような石槨はない) ④古墳の埋葬者の居館=三つ寺遺跡には水祭祀を示す遺構が明らかにされている。
4.4つの造り出しと行者塚古墳
行者塚古墳は5世紀前半、加古川の東岸・東播磨の西条古墳群にある前方後円墳(全長100m)で4つの造り出し(方形)をもつ古墳で有名である。東西のくびれ部の造り出しに水祭祀埴輪群が確認されている。(正確には導水埴輪はくびれ部に置かれ、くびれ部を谷川と見立て聖水を取ったと思われる)。加古川を渡るとそこは古代のブランド石棺:竜山石の産地である。これらを繋ぎ合わせると以下のストーリが想定できる。
上毛野の首長は5世紀中葉大仙古墳の葬儀もしくは古墳築造に参画した。さきたま古墳群の稲荷山鉄剣が示すように5世紀中葉ころから東西の交流があったことは明らかである。そこで2重周濠を見、また人物埴輪にも出会っているに違いない。そして石棺の制作依頼に竜山を訪問し、その途中に西条古墳群も訪ねた可能性は高い。これらを参考に自らの奥津城の築造に着手したのではないかと思う。上毛野の地は縄文以来、焼町土器、みみづく土偶を生み出してきた豊かな造形力があり、美しい古墳デザインと優れた人物・動物埴輪を創り出したのではないだろうか。
我々が図録や教科書で見る形象埴輪の多くが東国で創り出されたもので、埴輪で唯一の国宝は群馬県・太田市の武人像(東京国立博物館蔵)である。やはり縄文のDNAが脈々と繋がっているのだろう。
5.八幡塚古墳の埴輪群
 復元された八幡塚古墳(以下;八幡塚)で54体の埴輪群像を見た時、思わず今城塚古墳(大阪・高槻市、継体大王の真墓、以下;今城塚)中堤130体の埴輪群像の影響下で造られた1/2モデルと考えてしまった。八幡塚の築造は480年頃に対し今城塚古墳は530年頃と八幡塚が50年も先行する。つまり今城塚が八幡塚をモデルに造られたことになる。同様に継体と戦った筑紫・磐井の寿陵・岩戸山古墳(530年頃までに築造)にも巨大な造り出し(別区)に100体以上の石人、石馬が立ち並んでいたという。
畿内では5世紀末から6世紀初期に120mを超える古墳は造られなくなる。筑紫では岩戸山古墳(135m)、尾張では断夫山古墳(154m)、上毛野でも七輿山古墳(145m)と120m超える古墳が築造され続けられていた。 ヤマト王権はライバルでありパートナでもあった吉備勢力を壊滅させ,内部抗争を続け雄略大王以降、弱体化、衰退していったと思われる。財力、組織力の低下で120m以下の古墳しか造れなかったのが実体であろう。これを打開するために取られた大伴らの戦略が、越・近江の王で美濃、尾張とも連携を強めていた継体との連合政権構想であった。継体は着々と勢力基盤を拡大、526年にはヤマト王権を完全掌握しヤマト中枢の地に宮を開き、翌年には筑紫・磐井戦争に踏み切り、勝利した。ヤマト王権を再び倭国の盟主=大王に復活させた。この記念碑が今城塚古墳であろう。このため上毛野、筑紫を凌駕する190mの墳長、130体の埴輪群像、筑紫の阿蘇石棺・播磨の竜山石棺・河内の二上山石棺を備えた巨大な前方後円墳を築造したと考える。
6.綿貫観音山古墳と藤の木古墳
観音山古墳(以下;観音山)は6世紀後半、保渡田古墳群の系統を継ぎ、約1世紀後に築造された。天井石が玄室内に倒壊したために幸いにも未盗掘で調査出来た貴重な古墳である。ほぼ同じ時期(580年頃)に奈良県で築造され、未盗掘で発掘された藤の木古墳(以下:藤の木)と対比し東西の古墳を比較してみたい。
➀墳型:観音山が全長94mの前方後円墳に対し藤の木は50mの円墳である。この時期ヤマトでは前方後円墳が終焉を迎え方墳、円墳に移行していく。
②埋葬施設、規模:ともに横穴式石室。藤の木が自然石の石積みに対して観音山では精緻な角閃石安山岩切り石積み(5面取り567個)で、ヤマトでは草壁皇子の真墓とされる束明神古墳までみられない。(7世紀後半、1世紀上毛野が先行)、玄室面積:観音山は藤の木の2.3倍で倭国最大の丸山古墳と同規模、同プランで設計されている。
③棺:藤の木は二上山石棺に対し、観音山では棺は無く屍床に直接置かれたようである。中国の霊魂思想に基づく横穴式石室に石棺は無用で、矛盾する。ヤマトでは竪穴式古墳時代からの遺骸の保護、密閉の呪縛から逃れられず巨大な石棺が残存している。
調査で壁面に布の付いた金具が発見されており、天蓋様の幔幕で内装された可能性が示されている。6世紀の中国アスターナ古墳墓では墓室の天井布に鮮明な画像が描かれた例がある。高松塚古墳のように画像で囲まれていた可能性も否定できない。
④埴輪:観音山で最も注目されたのが埴輪群である。特に中段、横穴入り口周辺に配置された祭人像たちは優れた造形、1m超える大型埴輪で国宝級といってよい。藤の木では埴輪も終焉期で円墳裾野に円筒埴輪を僅かに認めるに過ぎない。
⑤副葬品:藤の木の副葬品は新聞紙上でも大きく取り上げられ2004年に一括国宝に指定された。当時の金銅の輝きを失わず素晴らしい馬具、武具、威信財が残された。観音山の副葬品の保存状況は悪いが、内容的には遜色がない500点が重要文化財に指定されている。詳細に見てみると藤の木では見られない純金製品9点、銅製水瓶、百済・武寧王陵から出土した銅鏡の同型鏡が発見されている。銅製水瓶は我国で古墳から発掘された唯一の完形品であり、中国北斉時代の出土品が知られている。国宝の法隆寺献納宝物の水瓶に匹敵する優品である。
これらの石室構造、副葬品は上毛野と大陸・半島との直接的な国際交流を示すものと言える。上毛野がこの時期、倭国の最先端の文化を有していたことが明らかである。
関西に居住しヤマト王権の中心地の古墳に見慣れた目で上毛野の古墳を見て多くの発見がありました。また自分も大和中心史観に害されていることを自覚で良い機会でした。(完)
11月7日ゼミ・テーマ変更
方形周溝墓から前方後方(円)墳への変遷―その築造規格:守屋 尚会員
ゼミ会議室変更のお知らせ
諸般の事情により、ゼミ会議室を本年11月7日ゼミ以降、下記の通り変更するのでご案内します。
1、全水道会館(文京区本郷1-4-1)4階中会議室
  TEL:03―3816―4196
2、アクセス:JR・都営三田線水道橋駅徒歩2分
3、詳細はHP「全水道会館」で検索して下さい。
3月7日ゼミ・テーマ13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
①後期青銅器文明の崩壊と「海の民」後編:亘 康男
②記紀の天皇の国風諡号と歴史地名の意味:井上政行
2月8日世話人会13:00~17:00
 機械振興会館6階会議室(神谷町駅)
4月11日以降は全水道会館に変更します。

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