古代史ニュース 2019.12.31 No.294

江戸期日本を見直す―江戸期遺産の再評価
2020年1月11日ゼミ紹介文―齊藤 潔会員記
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、延15年間戦った中国を初め、米、英、仏、蘭、豪、ソ連等の連合国に敗北し、無条件降伏した。この年は、江戸幕府が崩壊して王政復古に始まる明治維新(1868年)から、僅か77年目の事である。
 日本が1931年の満州事変に始まるアジア・太平洋戦争に敗北したのは、昭和という国家が、明治という国家を否定して無謀な戦争をしたからだという司馬遼太郎氏の歴史観が通説化している。昭和前期の軍部が起こした戦争で、大日本帝国は滅亡したという歴史認識である。即ち、明治と昭和という時代には大きな断絶があったというわけである。
では、事実を見てみよう。先ずはこの間の戦争史を辿ってみる。
1869年に戊辰戦争という国内戦が終了した。1873年の征韓論の政変で、征韓派の西郷隆盛らが内治優先派の大久保利通らに敗れ板垣退助らと共に下野した。一方、政府は翌1874年に台湾出兵、1875年には朝鮮江華島事件を起こし、砲艦外交で日朝修好条規の調印に持ち込んだ。そして、1894~5年には日清戦争、1900~1年の義和団鎮圧にあたった北清事変、1904~5年には日露戦争となる。
大正期には、1914年に山東半島で第一次世界大戦の一環である日独戦争(青島・南洋諸島割譲)、1917年のロシア革命後の内戦に絡んだ軍事干渉であるシベリア出兵(1917~22年)を行った。
昭和期に入ると、1931年の満州事変、翌年の上海事変、1937年の日中戦争、1939年のソ連とのノモンハン事件、そして1941~45年の太平洋戦争に拡大する。日本は明治から昭和前期まで、欧米列強との植民地争奪の帝国主義戦争に明け暮れたのである。戦争というキーワードで見る限り、明治・大正・昭和前期の間に断絶はない。
次に、国の備えである国防政策を見てみよう。それは、『帝国国防方針』で明らかである。内容は、軍事・国防に関する基本方針を定めた最高国策で1907年にスタートする。これは、陸海軍の統帥部(陸軍参謀総長と海軍軍令部長)が天皇に上奏し、これを西園寺公望首相に下付して決定された。当時の方針内容は、日本帝国の防衛は、台湾、朝鮮、南樺太、満州、内蒙古、中国本土、東南アジアでの植民地拡大路線で、仮想敵国は陸軍がロシア、海軍は米国とした帝国主義路線である。この方針は1918、1923、1936年の3度の改定が行われたが、一貫して国力を無視した軍備拡張路線だった。
一方、昭和天皇側近(西園寺公望・牧野伸顕)と大正後期から昭和初期の政府(原敬・高橋是清・浜口雄幸・犬養毅ら)は、軍縮と米・英・中国との貿易中心の経済協調路線を掲げていたが、この路線は、軍部とテロによって排除、沈黙させられた、そして1936年の2.26事件(クーデター未遂)は天皇の命令で鎮圧されたものの、軍部の主導権に変化はなく、政府の対外方針は、軍部の戦争拡大路線に追随する事になった。
1936年:国策の基準―日満支連携・東南アジア進出(広田弘毅内閣)
1938年:東亜新秩序(大日本帝国指導下の日満支提携・共助)―近衛文麿首相声明
1941年:大東亜共栄圏―第2次近衛文麿内閣の松岡洋右外相の記者会見
即ち、大東亜共栄圏という名に集約された国策方針は、1907年の帝国国防方針と同一内容である。
 以上、見てきたように日本の植民地拡大の帝国主義路線は、明治以来一貫しており、昭和前期には、政府と軍部が一体となって遂行し、これがアジア・太平洋戦争に拡大したのである。つまり、明治以来、日本の対外路線は昭和前期まで断絶などはなく、一貫していたことになる。その一貫性とは、欧米列強の植民地化からの日本の防衛は、日本自らが周辺国・地域への植民地拡大によってのみ可能になるという路線である。この考えは、ドイツの国家学者ローレンツ・シュタイン(1815~1890年)の主張である。即ち、主権線(日本)を守るには、利益線(植民地)の拡大によって達成されるという論理である。渡欧した山県有朋はシュタインと会っている。1907年の国防方針作成に際しては、この時期の山県は、政・軍の第一人者の地位にありこの論理を念頭に置いて、植民地拡大の帝国主義路線を国是としたのである。又、シュタインは、伊藤博文の明治憲法草案にも大きな影響を与え、明治政府の内政と外交政策樹立のキーマンである。こうして、日本は富国強兵・殖産興業の西欧化と帝国主義路線を突き進んだのである。
明治政府は、この西欧化路線の実行にあたって、江戸時代そのものの全面否定を行った。即ち多くの学者や文化人、識者らを動員して、反江戸キャンペーンを展開したのである。
1、明治の世を称賛して、江戸時代を糾弾する=古き悪しき暗黒の江戸期を克服して、希望溢れる明るい明治の世を築くスローガンとした。
2、文明開化、欧化主義が幅を利かせた。福沢諭吉の「脱亜入欧」論、島崎藤村の『夜明け前』は、半未開の遅れた封建制の暗闇の江戸時代が明治維新でやっと夜が明けた、という文明開化論に動員された。
 「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」、「丁髷頭を叩いてみれば頑固固陋の音がする」
3、欧州の歴史三分法の採用
  欧州史の歴史三分法が明治維新史観に取り入れられた。この三分法はルネッサンスの頃に生まれた西欧の歴史観である。ルネッサンスの時代が近代で、その前はキリスト教が支配した暗黒の中世とされた。そして、中世の前の時代が輝ける古代ギリシャ・ローマ時代としたのである。この西欧生まれの三分法を採用した明治日本は、古代の天皇制、武家が天下の中世=天皇権力を奪った暗黒の封建時代とされ、江戸期も中世に入れられた。そして、王政復古の明治維新で新しい天皇親政時代が始まるという歴史観を作成したのである。
4、こうしたキャンペーン、イメージ戦略や歴史観と並行して、明治政府は正史として、1872年から18年間かけて『復古記』(1889年)全150巻の編纂事業を完成させた。又、1910年には、山県有朋、井上馨らが主催した「彰明会」を母体として、『大日本維新史料』、『幕末外国関係文書』等の編纂事業を行い、1941年に完成した。これが、日本近世史、近代史の基礎となり、教科書の基になっている。
5、こうして、「悪しき江戸の世、輝かしい明治の世」というイメージ戦略は大きな成功を収めた。明治維新という用語も定着し、新政府が正しく、旧体制の悪しき江戸時代 は封建時代として完全に否定されたのである。明治政府の欧化主義による近代化は、鉄道敷設、殖産興業、お雇い外人、銀行設立、国家財政の確立、北海道開拓(屯田兵)、情報通信網整備・電化、学校 制度、そして強力な陸・海軍といった富国強兵路線を、「和魂洋才」というスローガンで推進された。
6、明治政府は江戸時代を否定した事で、2つの江戸の遺産を喪失したのである。一つは、日本は建国以来漢学と中国文明を手本とした「和魂漢才」で、政治・経済・社会・文化を日本化して「自家薬籠中の物」にしてきたが、その源の中国文明を切り捨てた事、もう一つは、江戸期が1637~8年の島原の乱年以来230年間にわたり、幕藩政府と庶民が一体となって、内外共に戦争のない世界的に希有な平和な時代を作り上げた知恵=ノウハウをも切り捨てたのである。
7、明治維新に対して、徳川日本は見事に負けて多くの人材と制度・仕組みを近代化への遺産と知恵を明治政府に譲り渡した。しかし、その遺産と知恵は生かされず、戦争に次ぐ戦争に明け暮れて、江戸時代の僅か1/3の短期間の77年間で明治日本=大日本帝国は滅んだ。江戸期を全面否定して、西洋化、文明開化、和魂洋才という欧化至上主義の成れの果てが敗戦だったのではないだろうか。
そこで、私は明治政府が学ばず全面否定した江戸期日本をもう一度見直してみる必要があるのではないかと思ったのである。152年前に滅んだ江戸期日本は、暗黒の監視社会、硬直した身分制(士農工商)、犬公方の生類憐みの令、悪代官の容赦のない年貢増徴と悪政に喘ぐ百姓(飢饉・一揆・水戸黄門)、平和ボケした鉢植えの武士、斬捨て御免の封建社会、経済発展阻害と外交音痴を招いた「鎖国」、ペリー来航に慌てた無為無策の幕府、恫喝に負けた開国、といった歴史認識が現在でも幅をきかせている。ゼミでは、明治期に作られ今日でも通説化している悪しき江戸期日本観を、先学の力を借りて真相を明らかにして、江戸時代の遺産と知恵を再評価し、そこから教訓を引き出そうと思う。
ゼミ発表では、政治編(今回)と経済編(次回)に分けて実態を明らかにして、通説の誤りと真相を明らかにしたいと思う。
1、外交(鎖国・露寇事件・阿部正弘・ペリー艦隊・条約締結・征韓論)
2、幕藩体制(支配機構・権力・人事)
3、幕政改革(保科正之・徳川綱吉・徳川吉宗・田沼意次・松平定信)
4、武士(階層・役割・身分・武士道・主君押込) 以上。
吉田松陰を考える―偉大な指導者か、破滅の扇動者か―:  清野敬三会員記
◇はじめに◇  私は現在、世田谷の松陰神社前に住んでいる。毎年の元旦には松陰神社に初詣をすることが、ここ数十年来の習慣になっている。従って、松陰サンとは長い付き合いで、この人物には特別の関心を持っている。過日、当講座の山陰ツアーで萩市を訪問した際、バスの中で吉田松陰について話をしたが、あらためて取上げてみる。
松陰については、小説も含め伝記・評論など、戦後だけでも無数の本が書かれている。全てに目を通すことは難しいが、概して松陰を称賛するものが殆どである。特に地元長州では、幕末の志士の中でも圧倒的に人気のあるのは松陰だと云う。 しかし、私は結論的に云うと、人間としての正直さ、真剣さ、その情熱は尊敬に値するが、政治のリーダーとしては失格者であると断ぜざるを得ない。もし、松陰が藩を指導する立場にいたら、長州藩は早々に取り潰しの憂き目にあっていただろう。また国のリーダーであったら、日本は欧米列強の植民地になったかもしれない。
◇生い立ち◇
 松陰は、文政13年(1830)、長州萩の郊外松本村の杉家の次男として生まれた。杉家は家禄26石の下級藩士で、半士半農で家計をやり繰りしていた。6歳の時、家禄57石の山鹿流師範である叔父吉田大助の養子となり、翌年大助が死亡したため吉田家の当主となり、9歳で藩校明倫館の兵学師範に就任した。11歳の時、藩主毛利慶親に御前講義を行い、その才能が認められた。
 幼い松陰を実質的に教育したのは叔父の玉木文之進である。文之進は性剛毅、廉潔で節義を尚び、その教育は峻厳を極めたという。ある時、松陰が書物を朗読中、顔に止まった蠅を手で払った。それを見た文之進は、松陰を死ぬほど殴り倒した。学問は公である。痒みは私である。私のために公をゆるがせにすることは許せないという理屈である。松陰はこういう無茶な教育にもよく耐えた。
 当時、学問を磨く方法は、各地の高名の学者を訪ね、その謦咳に接することであった。松陰も20歳の時、家学の山鹿流兵学研究のため平戸へ行くことが許可された。途中、長崎では西洋文明の一端に触れ、肥後では宮部鼎蔵と知り合い、この九州旅行は、松陰にとって海外事情に眼を開くきっかけとなった。
 翌年、今度は江戸への留学が認められた。江戸では、山鹿流の限界を痛感し、西洋兵学の佐久間象山に師事することになる。また、江戸へ出てきた宮部と親交を深め、東北視察旅行を計画した。ところが、出発予定日までに藩の過所手形(通行手形)が発行されなかった。松陰は友人との約束を守るため、手形なしで飛び出してしまった。脱藩であり重罪である。切腹は免れたが、士籍剥奪、世禄没収となった。しかし、藩の温情により父親の育(はぐくみ)として救済され、さらに10年間の諸国遊歴を認められた。
◇密航の失敗と松下村塾◇
 二度目の江戸遊学となった嘉永6年(1853)は、幕末争乱の幕開けとなる黒船来航の年である。ペリーの恫喝外交に憤慨し、松陰は宮部と共にペリー暗殺計画を立てている。しかし、翌年和親条約の締結を知り、西洋文明を求めて海外渡航計画に転換した。金子重之輔と二人、下田に停泊中の米国軍艦に小舟で漕ぎ寄せ乗船したが拒否され、幕府に自首した。死罪の意見もあったが、結局長州に檻送され萩の野山獄に幽囚された。
 その後、出獄を許され杉家での幽閉処分となった。この幽閉中に開いたのが、有名な松下村塾である。僅か2年余りの教育であったが、塾生には、維新以前に死亡した久坂玄瑞・高杉晋作・入江九一・吉田稔麿らがおり、維新後も生き延びて活躍した者に伊藤博文・山県有朋・山田顕義・品川弥二郎らがいる。
◇老中暗殺計画と処刑◇
 安政5年(1858)、幕府は勅許なしで日米修好通商条約を締結した。それに反対する勢力に対し、大老井伊直弼は大弾圧を加えた。安政の大獄である。
 松陰は自宅幽閉の身でありながら、老中間部詮勝が上京する機をとらえ暗殺する計画を立てた。しかも藩に対して、堂々とクーボール砲3門、百目玉筒3門、それに弾薬も必要量貸してほしいと要請した。これには藩もびっくりした。藩政府は、松陰の暴発を止めるべく、周布政之助らが中心となって再び野山獄に投獄した。この計画には、はねっかえりの門下生久坂玄瑞や高杉晋作らでさえ反対し、松陰に自重を促した。これに対し、「僕は忠義をなす積り、諸友は功業をなす積り。」と彼等に激しく怒りをぶつけた。
 その後、安政の大獄の余波で、幕府は松陰の身柄を江戸に送るよう命じてきた。嫌疑は2点で、長州を訪れた梅田雲浜との関係と、御所内の落とし文が松陰の筆跡ではないかという点であった。しかし、これらの嫌疑はすぐ晴れ、微罪であった。ところが、松陰は、幕吏に対し日本の危機を説き、今後如何にすべきかを説こうとし、間部老中暗殺計画をはじめ反幕府活動の一切を、自ら進んで語った。吟味役の思う壺であり、安政6年(1859)、斬首刑に処せられた。享年30である。
◇思想と行動◇
 松陰は、短い生涯のうちに膨大な量の文章を残している。それらは山口県教育会編の『吉田松陰全集』全11巻(大和書房)に収められており、講義録や日記・書簡等である。松陰は思想家ではあったが、「時務に関する諸著は多きも、学理に見るべきものは、殆どまれなり」(井上哲次郎)と云われている。河上徹太郎氏が松陰の主著として挙げている『講孟余話』も、孟子の理想とする「至誠」を説いているが、辞句の解釈よりも、その革命説や山県太華との論争などを通して、尊皇か佐幕かの時務に対する信念が中心となっている。
松陰はもともと著述家ではないから、論文よりはその行動を見るべきであろう。単に学問だけの学者であることを拒否し、行動が伴わなければ意味がないとした。陽明学を学び「知行(ちこう)合一」を実践した。全人格から発する言動が人々に影響を与えたというべきであろう。
 しかし、自分の思想や主義の純化と行動化にのみ忠実であり、事の成否は無視した。客観情勢を見極め、成功への方策を立てることなどとは、全く無縁であった。家業の兵学が、敵を騙してでも如何に勝利に導くかという技術であるとすれば、それとは正反対の極に立つ。これは個人の人格としては美質ではあっても、政治家として失格であろう。それに従う人々を不幸に陥れる。
 松陰は、真面目で純粋であった。人を疑うこともしなかった。「至誠にして動かざる者、未だあらざるなり。」を信じ、地で行った。至誠をもって事に当たれば、人は必ず応じてくれるものと思っていた。安政の大獄での取調べに際し、誠をもって説けば幕府の役人でも憂国の志を理解してもらえると思い、老中暗殺計画を自ら話してしまったのもその表れである。「あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。」と、松陰好きの司馬遼太郎を嘆かせている。
◇影響力◇
 松陰がもたらした影響の最大のものは、長州藩を幕末期の革命勢力に変える「火付け役」となったことである。松陰以前の長州藩は、幕府に従順なただの大名であった。松陰の処刑後、門下生たちが暴走を始め、時勢を傍観していた長州藩を倒幕の一大勢力に一変させた。
 世間は松陰を「狂」とし、自らも「狂囚」とか「狂狷」などと称した。「私は猛士ではあっても、狂夫ではない。」とも云っているが、猛と狂は重なるであろう。老中暗殺を企て、藩から借りた大砲を門下生10数人で京までガラガラ引きずって行こうと計画するなど、「狂」としか云いようがない。この「狂」が志士たちを駆り立てた。高杉晋作などは西海一狂生と号し、自らの行動を狂挙と称し激発した。正義と信じ信念に固まった行動は、当人にとっては満足であるが、情勢を無視したものであれば、それに従った人々を破滅に陥れかねない。
 松陰には、国の要人を殺してものごとを解決しようとするテロリストとしての一面も強くあった(一坂太郎氏)。それが至誠であると信じて疑わなかった。間部暗殺計画以外にも、紀州附家老水野忠央の暗殺を門人松浦松洞に指示している(未遂)。
◇和歌◇
 松陰は、詩人としても多くの作品を遺している。読書後の感想、憂国の心情など、暇あるごとに詩を書き綴っている。特に旅行中の作が多く、旅の日記に書かれている。漢詩も長短合わせて400篇程遺しているが、我々には和歌の方が馴染みが深い。
「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」― これは、松陰が下田で密航に失敗し江戸に護送される途中、泉岳寺の前を通った時に赤穂義士に手向けた歌である。しかし、むしろ松陰の生き様をよく表している。自らが正義であると信ずると、事の成否をかえりみず盲目的に突っ走ってしまう。自分でも自覚している「狂」であろう。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」― 近く処刑されると聞き、自らの心境と希望を門人に伝えるために書いた『留魂録』の冒頭に掲げた歌である。至誠の実験に失敗し死を前にして、忠誠心を表す辞世の歌として、松陰の代表作とされる。戦前の「愛国百人一首」にも選ばれていた。しかし、私には次の歌の方が心に響く。
「親思ふ心にまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらむ」― 家族に宛てた遺書『永訣書』の一首である。杉家の親子関係は濃密であった。松陰が国事犯になっても、家族は松陰を信じ、庇護し、激励した。松陰も両親や兄に対する敬愛の心が特別に篤かった。自分の死を親がどれ程悲しむか、最期まで松陰の心を悩ませたことであろう。(2017年6月記)以上。
4月4日外部講師ゼミ・テーマ
倭国のありさまと王権のなりたち―鈴木 靖民先生
2月1日ゼミ・テーマ13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
①炭素14年代測定法で分かったこと分からないこと: ❶弥生時代の始まり ❷ さきたま稲荷山古墳鉄剣銘文の辛亥年―相澤 省一
②万里の長城史―鈴木 慧
1月18日世話人会13:00~17:00
 機械振興会館6階会議室(神谷町駅)

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