古代史ニュース 2019.11.30 No.293

蘇民将来
―12月7日ゼミ紹介文:小川孝一郎―
◆寺社にいくと、家内安全・学業成就などの「お守り」が頂けます。そんな中で寺社によっては、「蘇民将来」と記したお札が配られるところがあります。これは流行り病などに罹らないよう祈念する「お守り」で、一般に護符と称されます。日本で最初の「お守り」と考えられます。伊勢地方にはこのお札を注連飾りに付けて1年中玄関に掲げる風習があります。
◆2001年に長岡京跡の側溝から、縦27㎜、横13mm、厚2mmの「蘇民将来」と記した木の札が見つかりました。中央部に穴があけられており、紐を通して腰や首にぶら下げたか或いは門戸に打ち付けられていたものらしいとみられています。つまり「お守り」です。これまでにも蘇民将来の護符は各地で出土していますが、最も古いもので平安初期、大半は中世から近世にかけてのものばかりでした。長岡京から発見された護符は奈良時代末期のものと推測され、「蘇民将来護符」としては我が国最古の物です。これは8世紀後半には「蘇民将来」と記したお札を身に付け無病息災を願う信仰が広まっていたことを示します。この信仰は相当古くから行われていたと考えられます。
◆「蘇民将来」というのは人の名前で、『備後国風土記』にその逸話が載せられていました。
『備後国風土記』の原本は残っていませんが、鎌倉時代中期に卜部兼方によって記された『釈日本紀』に備後国風土記の逸文が引用されており、それが「蘇民将来」の逸話であったことから、「蘇民将来」という名前が広く知られるようになりました。
◆本稿では「蘇民将来」という名前が無病息災を願う「護符」になった経緯を追ってみます。
 そしてその背景に武塔の神や牛頭天王という異国の神々や記紀のヒーローである素戔嗚命などが出て来るいきさつについて探ってみることとします。 以上。
『魏志』倭人伝 私の理解第3部:倭魏渉外関係史
―12月7日ゼミ紹介文:永井 輝雄会員記―
1.景初二年六月は「景初三年六月」が正しいのか
 『魏志倭人伝』は、「景初2年6月倭の女王は大夫難升米等を帯方郡に派遣した」と書いたが、江戸時代の新井白石、明治の内藤湖南、昭和の多くの学者は、遼東の公孫氏が滅ぼされたのは景初2年8月であり、その時に楽浪郡・帯方郡も平定され接収されたはずなので、それ以前の6月に倭国の使者が帯方郡に到着することはあり得ないから、景初2年6月は景初3(●)年6月に改めるべきだという。これは通説だといわれている。
これに対して、仁藤敦史氏(国立歴史民俗博物館教授)は、【楽浪・帯方郡の平定は、司馬懿による遼東出兵とは別の部隊であり、同年8月における公孫氏の滅亡よりも早かった可能性が高い。すなわち、楽浪・帯方郡が公孫氏から魏王朝の領有に帰したのは、「景初中、大いに師旅を興し、淵を誅す。又軍を潜ませ海に浮かび、楽浪・帯方の郡を収め」(東夷伝序)とあるように、司馬懿による遼東出兵とは別に、景初年間(237~239)に、明帝が、劉昕(りゅうきん)を帯方太守、鮮于嗣(せんうし)を楽浪太守に任命し、海路から進軍させて二郡を平定したことによる。その直後に諸韓国の首長らには邑(ゆう)君(くん)や邑(ゆう)長(ちょう)の印綬が与えられている。卑弥呼の帯方郡への遣使もこのタイミングで行われたと推定される】
金文京氏(京都大学教授)は、【卑弥呼の使節が景初二年に洛陽に来て正始元年に帰ることは、当時の情勢から考えてなんら無理はないのである。もちろん三年に来ることも同じように可能である。しかし『三国志』には二年と書かれているのであるから、よほどの矛盾がないかぎり二年で考えるのが筋であろう。後世の『梁書』などは、公孫氏がほろんでから卑弥呼の使いが来たというきわめて大雑把な考えによって二年を三年に改めているのであって、それを根拠に原典である『三国志』の文字を改めるのは学問的な態度ではない。現在、邪馬台国に関して書かれたほとんどの書物、および高校の教科書や辞書の類も、統べて景初三年を自明のこととし、あたかも『三国志』にそう書かれているかのような記述になっているのは、さらに問題であろう。】
2.正始元年(240)の読み方
『魏志倭人伝』には、【①正始元年、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣(つか)わし、詔書印綬を奉じて、倭国に詣(いた)り、倭王に拝(はい)仮(か)す。②并(ならびに)、詔(みことのり)を齎(もたら)し、金帛(きんはく)・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物(さいぶつ)を賜(たま)う。】と書いてある。①の部分は「正始元年、帯方郡の太守弓遵(きゅうじゅん)は、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を行かせた。(梯儁(ていしゅん)等は、)詔書と印綬を大事に持って倭国に着き、(詔書印綬を渡して卑弥呼を)倭王に任命した」という意味であり、ここまでは問題ない。②の部分は、「そのうえさらに、詔(みことのり)(天子のことば)をもたらして、金帛(きんはく)・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物(さいぶつ)を下賜した」と訳すことができる。
「詔書」は「天子の詔(みことのり)を記した文書」、「詔(みことのり)」は「天子が下位の者を召して告げることば」であるから、「詔書」は、天子から弓遵(きゅうじゅん)が預かってきた「‟親魏倭王卑弥呼に制詔す‟から始まる文書」で、「詔」は斉王芳がしゃべったことばを卑弥呼に伝えたものである。   ところで、景初3年6月が正しいという説をとると、魏の明帝は、景初3年1月1日に死亡しているため、倭国の使者は、景初3年12月に、8歳の斉王芳に拝謁し、斉王芳は卑弥呼を親魏倭王に任命し(金印紫綬は帯方太守に届けさせる)、下賜品は難升米たちが持って帰るということになる。そして、正始元年(240)の文章の②の部分で、斉王芳は、景初3年12月の「詔書」で贈与した品物のほかに、正始元年(240)にも金帛(きんはく)・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物(さいぶつ)を賜わったことになり、斉王芳が239年、240年と続けて卑弥呼に贈り物を贈るのは変だ(異例だ)ということになる。
『魏志倭人伝』は、原文通り景初2年にしておくのが正しいということになると考える。
3.『晋書』にみる正始元年の記事
『晋書』に【正始元年春正月、東倭が、通訳を重ねて朝貢を納めた】という記事がある。通説を説く渡邉義浩氏(早稲田大学教授)は、【卑弥呼の使者は、景初三年十二月に制詔を受けていたが、改元した正月に再び天子の曹芳に謁見したと考えてよい】と書き、『晋書』の「東倭」は卑弥呼が支配する倭国であると考えている。私は、東倭は卑弥呼の倭国ではないと思う。「東倭」という名前から、女王国より東にある国と考えられ、出雲あるいは吉備、もしかしたら大和が考えられる。公孫氏が滅亡したため、女王国以外の倭人の国も、魏と朝貢関係を結ぼうとしている様子がうかがえる。
4.正始8年、倭国と狗奴国との間で攻撃が激化した。
 正始8年、卑弥呼は人を帯方郡にやって、倭国と狗奴国とが攻撃しあっている様子を報告し、魏に援助を要請した。帯方太守王頎(おうき)は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政を倭国に派遣した。張政は、軍の指揮用の旗を難升米に与え、檄(回し文)を作って難升米に諭(さと)した。その内容は不明であるが、倭国と狗奴国との戦闘状態を終わらせるためのものであったと考えられる。狗奴国としても、倭国のバックにある魏国の軍事力を考えて、引き下がったと思われる。
5.卑弥呼の死、墳墓
卑弥呼の死亡時期は、正始8~9年(248~249)頃で、墓は径33m位の円墳か? 魏の皇帝は薄葬を命じたので、魏の皇帝から親魏倭王に任命された卑弥呼の墓は、高さを誇る高塚古墳ではない。墓の周囲には奴婢100人余が殉葬された可能性がある。 6.卑弥呼の宗女壹與の擁立
  卑弥呼の後継者として男王が立ったが、国中が服さず、結局卑弥呼の宗女(宗族の女子)13歳の壹與を立てて国中が収まった。塞曹掾史張政は檄(回し文)をもって壹與に諭(さと)した。これをもって張政たちは帯方郡に帰ることになり、送使たちは帯方郡の後、洛陽に行って朝貢した(248年頃)。 7.『魏志倭人伝』が終わった後
   266年倭の使節が朝貢した後413年まで、倭と中国との交流は記録に残っていない。291年晋と東夷諸国との朝貢関係も途絶える(賈(か)皇后のクーデター)。この頃壹與の倭国は晋の後ろ盾を失って崩壊したのではないか。以上。 私説 藤原不比等 Ⅵ 大納言・右大臣への道(40~ 62歳) ―増田 修作会員記―
大納言、昇進 持統朝、文武朝に入り藤原 史は不比等と名を改め、天武朝とは打って変わって昇進の階段を駆け上ることとなる。特に701年、大宝令の施行に伴う議政官人事で一挙に大納言に昇進することとなった。 ・690年  1月1日、持統天皇即位。議政官人事は次のとおりである。
太政大臣 淨広弐(従四位下)  高市皇子
右大臣  正広参(従二位)  丹比真人 嶋
(大)納言 直大壱(正四位上)  阿倍朝臣御主人
(大)納言 直大壱(正四位上)  大伴宿禰御行
中納言  直大貮(従四位上)  三輪朝臣高市麻呂
・701年  3月、大宝令施行。 大宝令に基づき官名と位号の制を改定。
左大臣 正広貮(正二位) 丹比真人 嶋
➡ 正冠正二位   左大臣
大納言 正広参(従二位) 阿倍朝臣御主人
➡ 正冠従二位   右大臣
中納言 直大壱(正四位上) 石上朝臣麻呂
➡ 正冠正三位  大納言
〃  直大壱(正四位上)大伴宿禰安麻呂
➡ 正冠従三位   停中納言、散位
〃  直広壱(正四位下) 藤原朝臣不比等
➡ 正冠正三位   大納言
〃  直広貮(従四位下) 紀朝臣麻呂
➡ 正冠従三位  大納言
〃  直大貮(従四位下) 三輪高市麻呂
➡ 正冠従三位  廃中納言、左京大夫

大納言となった藤原不比等の任命について、公卿補任は次のように記述する。
3月19日、藤原不比等は中納言に就任、従三位に叙せられた。3月21日、大宝令公布。(大宝令には、中納言の規定がないため)、中納言を停止、大納言に任じられ、正三位に叙された。 中納言の在官、3日である。石上麻呂、紀 麻呂も同様に停中納言、大納言に任じられ、石上麻呂は正三位、紀 麻呂は従三位に叙せられた。同じく中納言の在官3日である。
一方、3月19日、同時に従三位、中納言に任じられた大伴安麻呂は、3月21日、停中納言、散位(位階だけあって官職のない者)とされた。さらにこれまで中納言であった従三位、三輪高市麻呂は、廃中納言、従四位上、左京大夫に任じられた。
大宝令に中納言の制がないことは、関係する人々には当然わかりきったことであったろうから、まるでペテンのような強引な方法で中納言を飛び越して、石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂が大納言に昇進し、大伴安麻呂、三輪高市麻呂は中納言から除かれることとなった。異例の人事というほかはない。
この人事は当然持統太上天皇の意向により、藤原不比等が実行したものであろうが、石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂という壬申の乱における近江朝側の重臣の子孫を大納言に据え、大伴安麻呂、三輪高市麻呂という天武朝側の功臣を排除した政治体制を選択したことは偶然のものとは思われない。
 憶測であるが、この人事発令の直前に首皇子(聖武天皇)が誕生したのではないだろうか。 続紀は、この年(701年)の最後の記事に、「この年、夫人の藤原氏(宮子)が皇子(首皇子)を産んだ。」と記しているが、誕生の詳細な月日は不明である。
持統太上天皇は、首皇子の誕生をみて、文武天皇に続いて首皇子に皇位を引き継ぐことを決断する。 しかし皇族以外の母、藤原宮子から誕生した皇子の前例のない皇位継承を、大伴安麻呂、三輪高市麻呂さらには左大臣、丹比嶋、右大臣、阿倍御主人が支持することについて、持統太上天皇は不安を拭い切れず、それが石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂を大納言に据え、大伴安麻呂、三輪高市麻呂を中納言から排除するという異例の、そして唐突な議政官人事につながったものと思う。
2.右大臣への昇進と政権掌握
大納言に就任後、藤原不比等は、10年足らずの間に右大臣に昇進する。 この不比等昇進には、当然藤原宮子の入内、首皇子誕生による天皇の外戚としての地位もあったろうが、さらに重要な要因として、知太政官事制の新設、大臣就任の条件を定める八十一例の編集が大宝令施行後の議政官人事に大きな影響を与え、親王・諸王の議政官からの排除、古代からの豪族の序列の固定化などの結果を生み、不比等の政権掌握につながることとなった、
(1)知太政官事制
持統天皇は、690年、持統称制時代に高市皇子を太政大臣としたが、それ以後の親王の太政大臣任用は行われなかった。 持統太上天皇崩御の後は刑部皇子、穂積皇子が知太政官事として登用された。 また後に藤原不比等が薨去し、太政官が左右大臣を失った時に舎人皇子が知太政官事として任用されている。 いずれの場合も左右大臣の両方、あるいはいずれかを欠き、太政官が弱体となった時に親王が知太政官事に任命されている。
❶持統朝以後、宮廷内部においては、持統天皇の意志のもとで、天智、持統、草壁の系統に皇位を独占しようとする太い道筋が貫かれていた。そのため皇位継承の候補者の取り扱いは極めて微妙なものがあった。知太政官事制もその政策の一部である。 ❷知太政官事は、太政官を総知し、太政官の首班として、万機を摂行するとされている。太政大臣ではなく、知太政官事とされたのは、大宝令以前の太政大臣が皇位継承に関わる地位であったことから生ずる誤解を避けるためと、大宝令において太政大臣は濫りにその職に就くべきではない則闕の官とされたため、およびそれはあくまで臣下の代表であり、親王がつくべき職ではないという考えが生じたためである。
❸知太政官事の人選については、皇位継承問題に誤解を生むことのないよう、慎重に人選された。 このため皇族を母とする長皇子、弓削皇子などの知太政官事任命は慎重に回避された。 舎人皇子が任命されたのは、すでに首皇子が立太子を終えており、舎人皇子の年齢からも皇位継承の妨げにはならないと判断されたものであろう。(「知太政官事考」 竹内理三氏)
知太政官事には、天武天皇の皇子及び孫の4人が任命されている。天皇位を継承できない天武の皇子の優遇策として意識的に行われた人事であろう。しかし知太政官事はあくまでも令外の官であり、諸臣の大臣、太政官の充実によってその役割を失いあるいは狭められ、就任した親王が政治の主役となることはなかった。 結果的に知太政官事制によって天武天皇の親王たちは、知太政官事という令外官に封じられ、太政大臣への道を閉ざされることとなった。
(2)官位令「八十一例」
官位令「八十一例」は、親王、諸王、諸臣を大臣に任命する際の制約条件を示したものである。養老令制定直後に完成したとされているが、実質的には大宝令のもとで運用されており、藤原不比等政権下で主導されたものとみて差し支えない。(「知太政官事について」 山田英雄氏)
❶まず「八十一例」では、親王が太政大臣に任命される例を意識的に示していない。官位令では、太政大臣就任の官位として一品の親王、従一位の諸王・諸臣をあげているから、令として親王の太政大臣就任を排除しているわけではない。 しかし令が親王太政大臣の例を掲げていないことは、現実として親王の太政大臣就任を排除していることになろう。 実際には舎人親王薨去後の贈太政大臣の例はあるが、現実の親王の太政大臣任命は一度も行われていない。
❷次に諸王、諸臣を太政大臣に任命した時には、親王は左右大臣には任命しない。 親王が諸王、諸臣の下位になることを避けるための当然の禁止規定である。 同一の官司内においては親王が常に最高位になければならないことを意味する。
❸第三に親王が左大臣に任じた時、諸王は右大臣に任ずることができる。 諸王が左大臣に任じた時は、諸臣は右大臣に任ずることができる。  すなわち親王と諸王、諸王と諸臣は左右大臣として並ぶことができる。
しかし親王と諸臣は大臣として左右に並ぶことはできない。もう一段の身分差があることを示すものである。
従ってもし親王大臣を実現すれば、諸臣は大臣に登用できず、親王左大臣、諸王右大臣の体制を維持しなければならない。それは実際には困難であり、親王大臣が実現した例はない。
このように「八十一例」は、大臣任命にあたって親王、諸王が諸臣より優位にあることを示し、親王、諸王の権威を高めることを目的としたものである。 しかし現実には持統朝初期の授爵者およそ65名のうち、親王、諸王は30名に及ぶが、大宝令発布から50年の間に、中納言以上の議政官に就任した親王、諸王は実質的に長屋王ただ一人である。(他に葛城王、鈴鹿王があるが、葛城王は臣籍に降下して橘 諸兄としての大臣就任であり、また鈴鹿王は藤原四兄弟など政権中枢が一挙に失われる非常事態に対応するための知太政官事就任である。)この間長屋王を除いて左右大臣は諸臣である石上麻呂、藤原不比等、藤原武智麻呂、橘 諸兄に占められ、親王、諸王は「八十一例」のルールにより左右大臣に登る道を閉ざされた。 知太政官事はこうした親王を議政官に参加させる道として案出された制度であろうが、刑部親王、穂積親王、舎人親王は知太政官事にとどまり、太政大臣に任用されることはなかった。
知太政官事制、官位令「八十一例」が親王、諸王を封じ込めるために制定されたルールとは思わないが、結果として親王、諸王の議政官登用への道を閉ざすものであったことは事実であり、藤原不比等が政権を掌握する上での大きな要因となった。 (続く)
1月11日 ゼミ・テーマ(敬称略)
13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
江戸期日本を見直す:江戸期の遺産の再評価  ―齊藤 潔
12月14日 世 話 人 会 日 程
13:00~17:00
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