古代史ニュース 2019.10.31 No.292

後期青銅器時代文明の崩壊と「海の民」・前篇
11月2日ゼミ紹介文―亘 康男会員記
舞台はBC15世紀からBC12世紀初頭にかけてのエーゲ海、東地中海地域、そしてメソポタミアである。そこに登場するのはエジプトとヒッタイトの二大帝国をはじめとして、クレタ島、ギリシャ本土、アッシリア、ミタンニ、バビロニア、カナンの諸都市,キュプロス島などである。ここに繰り広げられるのは、領土拡張のための戦争、諸王家間の贈り物交換や政略結婚を通じての同盟関係づくり、そして何よりも重要なのは諸国間で活発に営まれた交易活動である。交易対象物は、日常生活における各種の消費物資、生活必需品、装飾品など、そして加工品に必要とされる材料・資源である。交易活動はおのずと諸国間の相互依存関係をもたらしたが、並行して文化面では、相互に影響し合って文化の類似化・同一化が進んだ。その結果、広範囲にわたる地域に一大文明圏が築かれた。それがここで言う後期青銅器時代文明である。この文明世界は300年ほど大いに繁栄するのだが、BC12世紀初頭になると突然衰退を見せ始める。そしてあっという間に崩壊してしまったのである。その後に来る文明は「鉄の時代」のものだが、この地域にその姿を現すまでには約300年間という長い時間がかかった。この衰退期を前代未聞の「大暗黒時代」と呼ぶ。この大規模な文明崩壊はこれまた前代未聞で、これに匹敵するものは、それから約1500年を経た「ローマ帝国の崩壊」と言われる。しかしながら、両者の崩壊規模が匹敵し合うか否かはともかくとして、両者間には政治的体制面に於いて、根本的な違いがある点は、重要である。言うまでもなく、ローマ帝国は、政治的に独立した一つの政体であった。そしてローマを中心とした政治権力の下に、統治する全領域を直接的、或いは間接的に統治した。これに対して、我々が今みている後期青銅器時代文明の「世界」とは、複数の国家や都市国家が、飽く迄個々の政治的独立性を保ちながら、同一文明を享受し共有していた「世界」である。この点で、後期青銅器時代の世界は、今日の我々が生活する世界と同じである。その意味で、後期青銅器時代文明の崩壊は、今日の我々に何を語るか、暗示的である。崩壊とその原因に付いては、本論の後編として、来年三月に予定するゼミ発表に回すので、今回は、先ずは当該地域の崩壊に先立つ300年、即ちBC15世紀からBC13世紀のイメージを、歴史的事件を通じて把握しておきたい。歴史的事件の中には世界的にも良く知られているものも数多くある。例えば「出エジプト」、「トロイア戦争」、「カデッシュの戦い」、「海の民のエジプト襲来」などなど。登場する人物として、エジプトのアマルナ(宗教)革命のアクナーテン、男装で有名な実力女王のハトシェプスト、若くして未亡人となったツタンカーメンの愛妻、バビロニアのハムラビ王なども姿を見せる。また、語られる歴史的事件は、全て考古学的資料と文献資料に裏付けられた研究の成果に基づくものである。  以上。
馬と弓
―齊藤 潔会員記―
弓馬は武士の代名詞である。弓馬の家は武家を、弓馬の道は中世の武士の心構え・生き方を示す言葉とある(広辞苑)。この馬と弓について、その歴史的経緯を述べてみたいと思う。
<馬について>
 『魏志倭人伝』に日本には「牛馬なし」の記述がある。卑弥呼は3世紀中頃の人だから、文献史料ではこの頃には馬はいなかったことになる。次に、考古資料ではどうだろうか。かつては、縄文・弥生期の遺跡から馬骨が発掘されてこの時期の生息説があったが、その後、この馬は後代に埋められたとの見方が一般的となり、現在では否定されている。
1、考古資料では5世紀前後の古墳時代に馬骨が出土している。文献上は高句麗の「好太王碑文」にヒントがある。高句麗が慕容燕(鮮卑族慕容氏が建国した燕国)に北進を制せられて朝鮮半島を南進し、百済・加耶諸国・新羅を圧迫して、これに日本が渡海して高句麗と戦い惨敗したとある。碑文は勝利者側の記述だから、多少割り引いて解釈する必要があるが、その後の南朝鮮内の高句麗の支配に関する文献史料や碑文(中原高句麗碑・忠州市)等の記述を読むと、日本が対高句麗戦に敗れたのは事実であろう。好太王碑文は5世紀に好太王(在位391~412年)の息子の長寿王が、父の偉業を讃えて集安(現在の中国吉林省)に建立したものである。この日本と高句麗の戦いは、4世紀末から5世紀初めと考えられる。歩兵主体の日本は騎馬戦の威力を思い知らされたのであろう。馬冑や馬甲で覆われた高句麗の騎馬隊は、今で言えば戦車に相当する重装備軍だったと思われる。
さて、この敗北で日本は馬と騎馬武装を即刻取り入れ、軍装改革を行ったと思われる。その証拠を考古資料から確かめてみよう。馬の骨や乗馬に必要な轡、鐙、鞍等の多種類の馬具の出土状況について、桃崎祐輔教授(福岡大)は、4世紀末から5世紀初頭に日本各地から同時に出土すると分析して、軍事にかかわる伝播は早いと述べている。
2、馬匹生産については、馬の飼育は馬牧で行われるが、これは5世紀に北部九州、宮崎、大阪、北信濃、群馬に形成された。この地域には馬飼集団が設置されたのである。設置したのは各地の有力豪族であろう。馬の渡来は時代は下るが、『日本書紀』の記述から想像すると、馬を外洋船で輸入したと思われる。多数の外洋船に、馬と馬飼集団と馬具製作の人々が乗り込んで日本に上陸したと思われる。馬の繁殖には近親交配障害を起こさずに行う必要がある。100頭、1000頭単位の多数の馬数が必要であった。当時の船は準構造船(丸木舟の両舷側に波除板を付けた)で、最大10人位で漕ぐ大きさであったので、当初の馬の輸入は膨大な船数と航海回数でくり返し行われたと思われる。
3、ここで、渡来時の馬の体格について述べる。渡来時に近い馬としては、御崎馬(宮崎県都井岬に生息する在来馬)・北海道和種(松前藩が江戸中期に北海道に移る時に連れて行った南部馬)・木曽馬がある。14世紀中頃の鎌倉由比ヶ浜で発掘された馬の体高(き甲から地面)は138cmであった。当時の一般的体高は平均130cm(110~140cm)と推測される。古文書に、「八寸計ハッキバカリなる」馬とは、当時で、立派な馬体を指す言葉で4尺8寸(145cm)のいう意味である。馬の体高は四尺(120センチ前後)を基準として、それ以上の個体を寸キで数えた。しかし、現代のサラブレッドの体高160~165cmに比べると格段の相異である。
4、次は、乗馬に必要な轡、鐙や鞍といった馬具であるが、これも日本各地から同時に出土しているのである。馬具の材質は、銅と鉄で、実用品だけでなく金や銀でメッキされた装飾品も同時期に入っている。5世紀前半の馬具の仕様は騎馬文化の本場である慕容鮮卑(先述・故地は現在の中国の内モンゴル自治区)スタイルで、製作は新羅、百済製とされている。5世紀後半になると、高句麗や朝鮮半島諸国の在地スタイル化したものが、日本で国産化されたと分析している。馬具についても手当たり次第に輸入したようだ。当時の豪族らの危機感とその心情が窺える。馬が実用(運送・軍馬)に供されるのは、渡来から1世紀後の5世紀末と考えられている。又、日本でも、馬冑や馬甲が出土しているので、馬の重装備品が輸入され製作されたと思われる。
 騎馬文化は軍事用の騎馬戦術として輸入されたので、有力豪族の巡狩(支配地の視察)=狩猟、巡行、游観に際しては軍事訓練も行われた。巡狩は飛鳥時代に記録されている。そして、この時期に、馬上に弓を伴う騎射が行われるようになるのである。
<弓矢について>
弓は人間が工夫して組み立てた器械装置として最初のものである。弓は槍を遠距離に投げつけるために考案された(G・チャイルド・豪)。弓矢文化はバリヤ族(南印)、アボリジニ(豪)、ポリネシア(中部太平洋)等の一部種族を除き、世界の殆どの種族や民族がもっていた文化である。弓は短弓と長弓に分類される。又、機械仕掛けの弩がある。以下、日本の弓の歴史と世界の弓との比較を述べる。
1、縄文期の弓は101~175cmと幅がある。概して短弓である。加茂遺跡(南房総市)、真福寺遺跡(さいたま市岩槻区)、下宅部遺跡(東村山市)は1m以下である。縄文晩期の滋賀里遺跡(大津市・140cm)、是川中居遺跡(八戸市・90~156cm)は長くなる。
2、弥生の弓は長弓の傾向を示す。唐古遺跡、登呂遺跡、山木遺跡(伊豆の国市)、篠束遺跡(豊川市)、新保遺跡(高崎市)出土の37例の弓は、弥生中・後期でいずれも2m前後の長弓だった。
〇『魏志倭人伝』記載の倭人の弓は、「木の弓は下が短く上が長い」と記述されている(後述)。
3、古墳時代では、4世紀のメスリ山古墳(桜井市)出土の鉄弓は、1.82mの長弓である。5世紀の土保山古墳(高槻市)2号棺の弓も2mの丸木弓である。6世紀の七廻鏡塚古墳(栃木市)の弓も2mの長弓だった。
4、正倉院御物27張の弓の平均長は206.2cm、春日大社蔵68張の平均長は221cmとなり長弓である。以上、古墳時代以降現代までの日本の弓は長弓である。
5、世界の弓は次の通りである。
➀アイヌやサハリンに住む北方民族(ギリヤーク、オロッコ族)の弓は短弓である。アイヌは毒矢を用いる。
②高句麗壁画古墳の弓は、アーチェリータイプの短弓である。
③匈奴やモンゴルの弓も短弓である。元寇時(13世紀後半・蒙古襲来絵詞)も、アーチェリータイプの短弓である。中国も、殷代、春秋・戦国時代ともアーチェリータイプの短弓である。ブータン、タイもアーチェリータイプの短弓である。
➃、長弓文化圏は南太平洋諸島、南米等である。スマトラ島西岸のムンタワイ諸島の島民の弓は、身長を超える長弓でインドネシア、ポリネシア、フィリピン、ソロモン諸島、スリランカ島に広がっている。
6、弓材は木・竹・角・動物の腱等で、それらの組合わせからなる。日本の弓幹の木種は、カシ、マユミ(錦木)、ケヤキ等の広葉樹や、イヌガヤ・カヤ・イヌマキ等の針葉樹である。弓体の破損防止・反発力強化のために、樹皮や籐・糸等を弓体に巻く。漆を塗る、乾燥や弓体の彎曲による破損防止のために弓腹に樋(溝)を通す。
7、弥生期の銅鐸描写や、『魏志倭人伝』の記述にある長弓を「短下長上」に構える理由:日本の弓は長大で、弣ユズカ部(矢を射るとき、左手で握る弓の位置)が弓体の中央より下にあり、その勢ナリ(弦を張った弓を側面から見た形―張顔)が上下違っている。現存する古墳・奈良期の弓は木製単材で狭弝の  長弓で、その後、木と竹を組み合わせた半彎弓へと発展した。遠い祖先は大陸系の動物性素材の短彎弓を知っていたと思われる。しかし、動物性弓材は高温多湿気候の日本では、破損・腐食の問題があり、素材は木と竹となった。ただし、木と竹では動物性素材に比べて弾性限界が低い欠点があり、破損防止のために長大化せざるを得なかった。長大になると矢勢(反発力)が減少するので、その対策として勢に工夫を凝らし、弣の位置を中央より下に置くという特異な弓体を創り出したのである。
8、弩は弓矢の原理を拡大させて、矢をより強力に射る為の武器として発明された。弩は銃の原型になった武器で、台座に弓を横に取付、弦を台座の引き金装置にかけた後、矢を番ツガえ、狙いをつけて引き金を引き発射する装置である。通常の弓より飛距離が長く、命中精度も高く、破壊力が得られる。弓に比べて操作方法が容易で、紀元前より東アジアで使用が認められ、中世欧州でもクロスボウとして大規模戦闘に盛んに用いられた。
➀中国では『孫子』に記述があり、紀元前5世紀には戦闘に使用されていたようだ。唐の時代には、弩兵の一斉射撃により、騎兵の突撃力を弱め制圧する事が可能な武器だった。
②日本での初見は、姫原西遺跡(出雲市・3世紀前期)で、臂(ひ)と呼ばれる弩の本体が出土している。日本書紀によると、618年の推古天皇の時に高句麗から伝播し、その後急速に普及、弩の政策と操作を行う弩師が任命された記録がある。律令時代には、青銅製の弩機が、1999年に宮城県栗原市伊治城跡から出土した。又、881年の元慶の乱(秋田城における俘囚の反乱)の際、朝廷軍の兵器のなかに大量の弩が含まれていたとの記録もある。朝廷軍が対蝦夷戦に弩を備える事で、一騎当千の蝦夷騎馬軍に対峙したと思われる。しかし、9世紀には蝦夷征討が峠を越し、律令軍制=軍団制が東北を除いて廃止された。10世紀には武力集団としての武士が登場して馬上の武士同士の一騎打ちの戦法に変わり、歩兵集団戦に効果のあった弩は11世紀以降に廃れてしまうのである。
9、次に、矢についての歴史と素材、毒矢に言及する。
➀矢は縄文期より篠竹が使用されていた。そして、縄文人の知恵として自然の矢竹を均一に摺り磨き、真っすぐにする道具として、縄文草創期にすでに「矢柄研磨器」という道具が全国各地から出土している。
②矢の素材は、石鏃(縄文期・弥生期)、青銅鏃(弥生期)、鉄鏃(弥生期以降)である。
③矢毒には、トリカブト文化とイポー文化がある。トリカブト(キンポウゲ科植物の根塊)はネパール・ブータン・雲南・四川・沿海州・樺太・カムチャッカ半島・アリューシャン列島・北海道(アイヌ)に住む民族が使用した。又、くわ科の広葉樹イポー(樹液)は、マレー半島・インドシナ半島・スマトラ・ボルネオ・比諸島等が吹き矢を利器として使用する。元寇ではモンゴル兵が使用した。日本は毒矢を使用していない。
  <騎射について>
1、騎射の最初の騎馬民族はスキタイ(BC3500~2000年・ウクライナ地方のイラン系遊牧民族)である。BC8世紀頃有効な武器だった弓矢の矢先を石鏃から銅鏃に、又、2立羽の矢を3立て羽として矢に貫徹力と直進性を加え、これを騎馬上から縦横に駆使する事で、戦闘力を飛躍的に増大させ、周辺国を席巻した。
 2、騎馬文化はその後モンゴル高原で活動した中央ユーラシアの遊牧騎馬民族である匈奴に伝わり、漢民族に脅威を与えた。日本に騎射が登場したのは、騎馬文化が渡来した4世紀末から1世紀以上経過した6世紀になってからである。考古資料では、群馬県太田市出土の武人埴輪(6世紀・国宝・東京国立博物館像)は、挂甲ケイコウ(小札を用いた可動性の高い甲で平安中期に作成された大鎧の原型)を装着し右手を腰に帯びた大刀に添え、左手に弓を持っている騎馬像である。文献では、雄略紀(5世紀後半)に騎射による市辺押磐皇子殺害の記述がある。
3、騎射戦は、奈良期に軍事的に盛んとなり、騎射術に堪能な平安中期から後期に武士団が形成される。特に、東北・関東に騎馬先頭集団が現れるようになり、武器や武具、戦闘も日本独自の思想が形成されていく。大鎧着用の乗馬術と騎射術の発達が見られ、鎌倉政権の成立で騎射術が盛行する。尚、「吾妻鏡」には、大庭景義が保元の乱で騎射戦の心得として、長弓ではなく短弓の利を説いている。南北朝期には長大太刀や鑓が登場し、騎射戦は衰退する。16世紀中頃以降は鉄砲が主役となる。しかし、武士の行動規範としては、弓矢の道、弓矢取る身とされ、江戸期の『武家諸法度』には弓馬の道として武門の象徴とされた。
<弓矢と騎射に対する信仰と世界観>
1、中国では、士大夫が知得・体得すべき教養科目の「六リク芸」=礼・楽・書・数学・射・御(馬術)の必須科目になっている(『周礼』)。
2、世界では刀剣と弓矢は、共にその威力と雰囲気から武器信仰の対象となり、神器・聖器となった。日本でも、草薙剣は天孫降臨の際の三種の神器の一つであり、天真鹿弓と天真鹿矢は天神の持ち物となっている(神代紀・異伝1)。 ➀天上界では、アマテラスがスサノヲの狼藉で防衛上武装するのは、刀剣ではなく弓矢である。天神タカミムスビが、アメノワカヒコに命じて葦原中国の国譲りの談判に降臨する時に授けたのは弓矢である。又、「神武紀」には、神武とニギハヤヒが天神の子としての証拠合わせする品はやはり弓矢である。
②中国の黄帝の王権の印は弓矢である(『史記』)。高句麗の朱蒙は、善射者(弓の名人)であり、高麗王朝の始祖である作帝建も王権の印として唐の粛宗から弓矢を与えられる(大林太良)。記紀神話でも、高天原時代は弓矢が天神の象徴であり、ホノニニギの降臨時に弓矢から剣に代わるのである。
③弓矢は相撲と共に豊作神事や祭事に重要視された。又、弓射は破邪的力があると信じられて、弓射神事や破魔矢等の民間信仰として生き続けている。
3、世界の弓矢に対する世界観は、東西で異なる。
➀欧州人(ギリシャ人・ローマ人・ゲルマン人)は、弓は非武士的として、本能的に拒否した最初の遠戦武器である。イオニアのオデュッセウス伝説では弓は脇に追いやられ、オデュッセウスには一対一の戦闘武器である剣が与えられた(コリントやアッティカの壺に描かれた絵画)。中世の欧州でも、騎士階級の戦闘の中心は剣と槍だった。「飛び道具」の弓矢やクロスボウ(弩)、そして鉄砲は卑怯とされた。戦闘での捕虜の扱いも、剣士は丁重に扱われたが、銃手は一段低く扱われた。
②日本では、中世前期までは騎射戦が盛んだったが、後期には騎上での長太刀・槍戦となった。弓矢は歩兵戦が主力となり、その後、鉄砲が登場してその有効性が重視され弓矢に代わって戦国期に普及した。一方、刀剣については、平安後期に騎射で敵を落馬させ、下馬した敵を組み伏せて止めを刺す戦法が普及して、「組み討ち技」が「弓馬の芸」と共に武士の必須の芸となった。
③日本での「飛び道具は卑怯」「刀が武士の魂」「鉄砲は足軽のもので、武士が扱うものでない」という標語は、江戸期に幕府の御用学者である林羅山(1583~1657)の主張で普及したのである。この主張には裏がある。即ち、林は、鉄砲が軍事上有効で重要であることを認識しており、幕府の諸藩対策として鉄砲から遠ざけるためにこの標語を普及させたのである。幕府は「卑怯」という武士の倫理に反する言葉を普及させて、諸藩に対して事実上の「鉄砲狩り」を行ったのである。その証拠に、もう一つの飛び道具である弓には、一言も触れていないのである。以上。参考文献:近藤 好和『騎兵と歩兵の中世史』。入江康平『弓射の文化史』。帳 允禎『古代馬具から見た韓半島と日本』。橿原考古学研究所『古墳時代の馬との出会い』。安本美典『日本民族の誕生』。
2019年ゼミ・テーマと発表者(敬称略)
1月11日:江戸時代の日本を見直す―齊藤 潔
2月1日:➀炭素14年代測定法で分かった事わからない事―相澤 省一。②万里の長城史―鈴木 慧。
3月7日:➀後期青銅器時代文明の崩壊と「海の民」・禎前篇―亘 康男②記紀の天皇の国風諡号と歴史地名の意味―井上 政行。
4月4日:外部講師(未定)
5月2日:律令とローマ法―古代法の東西比較―藤田一郎。6月6日:邪馬台国研究史:昭和期―小川 孝一郎。
7月4日:➀伊勢神宮の創建-増田修作②女王の国々と狗奴国―槌田鉄男
8月1日:➀ヤポネシアプロジェクト続報―磐城 妙三郎②根子番楽―二階堂 剛9月5日:現日本人になった人々の起源―飯田 真理
10月3日:東西文化交流路の古代史―伊藤 誠三
11月7日:方形周溝墓から前方後方(円)墳への変遷―守屋 尚
12月5日:➀蘇民将来―小川 孝一郎 ②巨大前方後円墳の被葬者―永井 輝雄 
12月7日ゼミ・テーマ13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
➀蘇民将来―小川孝一郎
②魏志倭人伝・私の理解Ⅲ―永井 輝雄
11月9日世話人会13:00~17:00
 機械振興会館6階会議室(神谷町駅)

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