古代史ニュース 2019.09.30 No.291

日本古代王権の祭祀と女性
10月5日 ゼミ紹介文―倉重 千穂会員記
アマテラス鎮座伝承は『日本書紀』の垂仁天皇紀に書かれているが、実際には皇祖神としての国家的祭祀が制度的におかれるのは7世紀末以降である。それ以前はそうではなかった。7世紀以前、最高神・皇祖神の地位についたのは「タカミムスヒ」という神だった。「タカミムスヒ」という神が天孫に天降りを命じた降臨神話本来の司令神であって、「アマテラス」はあとからその地位についた後発の主神であるということは研究者の間では共通認識になっている。私もそのように理解し、古代王権、そして深い関りのある伊勢神宮の祭祀に関わった女性たちについて考えたい。
国家・宮廷レベルの祭祀では、神々は常に天皇や王宮を守護する機能を要求され、ゆえに常在し、専業の神職たちや常設社殿の成立もそうした事情と深く関わっている。律令国家の成立以前、女性が神祭りにどのように関わっていたのかという史料は『日本書紀』に何例か見えるが、女性だけが神祭りを行っていたのではないようだ。
701(大宝元)年に大宝令が完成し、律令による政治制度が確立された。太政官の上に設置された「神祇官」という役所の存在は、日本律令国家において神祇祭祀が重要な意味を持っていたことを物語っている。律令体制下の宮廷祭祀における女性司祭者=御巫が奉斎する二十三座の神々の配列は天皇個人から国土全体に波及する神霊観を内より外に段階的に表現したものである。宮廷で祭られる神々のうちでも、八神殿の八座の神々をはじめとする、神祇官西院に祭られる二十三座の神々は宮廷祭祀・神祇官祭祀の頂点に位置するもので、伊勢神宮に次ぐ重要な神々である。
しかし、「御巫」は二十三座を祭る重要な職掌を持ちながら神祇官職員の記載から除かれ、雑色人という曖昧な立場であり、また、祭る神々の別により、2つの異なる任用規定があった。4種の御巫のうち、「座摩巫」のみは異なる任用条件である。7歳以上の「都下の国造」の氏の童女であること、他の「御巫」たちにはそのような規定はない。それは何を意味するのだろうか。また、御巫が交替する度にその奉仕する神殿は改築され、なかでも、大御巫の仕える八神殿の場合は神衣から神の寝具・敷物・畳に至るまで全て取り替えたというのである。そして宮廷守護神に仕えるものとして厳重な禁忌が課せられ、特別な待遇が与えられたらしい。
彼女たちの独自の活躍があるのは、鎮魂祭と大殿祭である。鎮魂祭には、大御巫が斎院で稲をつきふるうことから始め、当夜の神饌の御飯を炊き上げる。そして支給された盛装で神祇官人に率いられた大御巫以下の御巫たちが祭場に参入、「御琴笛」にあわせて「御巫及び猿女」が神楽を舞い、大御巫がウケフネをふせた上にのって矛で突く呪的な動作を繰り返す。鎮魂祭の主祭神が大御巫の仕える八神殿の神々であるから、この日は大御巫にとって特に重要な祭りであった。大殿祭は新嘗祭・月次祭の翌早朝行うもので、中臣・忌部の両神祇官人に率いられた神戸と大御巫たちは内裏に参入し、仁寿殿・紫宸殿・湯殿・厠殿を順次まわって、忌部がそれぞれの御殿の四隅に「玉」をかけ、「御巫」等が米・酒・切木綿を撒く行事をしてまわった。
宮廷祭祀に対して国家的祭祀の最高位に位置するのが伊勢神宮である。そこでの祭神の性格は古代の在地祭祀における一般的自然神と大きく隔たっている。王権祭祀としての特殊な在り方を顕著に示す一方で、外宮(止由気宮)は本来、伊勢の在地の豪族たる度会氏の祀っていた神と思われる。地方神「イセの神」が変質、成長し、天皇家の祖先神に置き換えられていった。
伊勢神宮はアマテラス大神を祭神とする内宮(皇大神宮)とアマテラス大神に食膳を奉仕する豊受大御神を祭神とする外宮(豊受大神宮)からなる。
延暦23年(804)の段階で内宮には禰宜以下43人の専業神職者がいた。そのうち13名の物忌(童女11名、童男2名)と物忌父が含まれる。外宮にも同じく禰宜以下21名の神職者がいてその中に6名の物忌と父が含まれる。外宮の物忌はすべて童女である。
物忌は7~8歳から13歳ぐらいの子供たちであるから、彼女たちだけで任務を果たすことは困難である。そこで「父」という役の成人男子の介助役がついており、実際にはほとんど「父」がやったようであるが、建前として「童女たち」に求めたものは何だったのか。
実際の分担についてはさまざまな行事の進行次第の中に記された各神職者の働きを詳細に見なければならないが、専業神職者以外の者の神事関与が窺われるのである。伊勢神宮の祭祀における成人女性の働きを両『儀式帳』から探ると(1)「物忌母」と記されるもの(2)「(禰宜・内人など)妻子」と記されるもの(3)明記されないが「後家」としての女性の働きが想定される。
8世紀における伊勢神宮の物忌の童女たちの職掌と奉仕の実態は神祇官西院に奉仕する宮廷御巫たちの姿と非常に似ている。その共通点を比べながら、神宮の御巫「御巫内人」についても触れる。   以上。
騎馬文化と古代日本
10月5日ゼミ紹介文―市川達雄会員記
江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」(1948年、1965年)は、そのまま学会に受け入れられることはありませんでしたが、我が国における国家の起源やその展開過程、更に馬文化の起源を4世紀における騎馬遊牧民の南下の影響にあるとして、それらを東アジア史的視点から捉えようとしたことに意義があったと言われています(白石太一郎)。その後、中国、朝鮮半島、日本列島における考古学的調査・研究が大きく進展し、同様の視点からの議論も深まっているので、その一端を紹介したいと思います。
内容を大きな項目で示します。
1.騎馬民族(騎馬遊牧民)について 
2.騎馬遊牧民の特徴 
3.騎馬文化とは 
4.騎馬文化の日本への伝播
5.馬具の説明
6.轡はどのように日本に伝わったか
7.馬について
8.日本における古墳時代の甲冑
1.では、騎馬民族(騎馬遊牧民)の誕生についての説を紹介します。
2.では、騎馬遊牧民の一般的な特徴について簡単に説明します。
3.では、一般的に騎馬文化と言われているものにはどのような内容が含まれているのかについて、諫早氏の考えを紹介します。
4.では、騎馬文化がどのように日本に伝わったのか、その背景には何があるのか、についての考えを紹介します。
5.では、騎馬文化の中でも、今回は馬具、更にその中でも轡を代表として話を進めたいともいますので、前提として馬具にはどのようなものがあるのかを説明します。
6.では、その轡がどのように日本に伝わったのか、そして轡を含む馬具に関する遺物の日本国内における分布状況について考えます。
7.では、馬そのものについて、どのような馬が、何時、どのようにして日本に入ってきたのかについて、最新と思われる説を紹介します。また、積石塚・渡来人・牧の関係について考えます。
8.最後に、騎馬文化の伝来とともに技術的に進化した武具、甲冑について、その発展状況を概観します。 以上
崇峻大王はほんとうに馬子に暗殺されたか Ⅱ:山田 英夫会員記
 その2-日本書紀の物語への道筋
1.前稿では墳墓の考察から崇峻大王は暗殺さていないことを述べた。今回は崇峻の大王即位の足跡を追いながら馬子、推古の視点からの解析と日本書紀がなぜいつ暗殺の物語を創り出したかを考察してみたい。
1) 崇峻大王の誕生
587年用明大王の崩御を機に蘇我・物部争いは一気に緊迫、6月穴穂部・宅部皇子の誅殺を初端に全面戦争に突入した。馬子はほとんどの皇子、豪族を纏め上げ勝利した。推古、群臣の推挙で泊瀬部皇子が即位・崇峻大王の誕生である。
  泊瀬部は、欽明大王の第一二皇子で斬殺された穴穂部皇子の同母弟である。用明大王の母親・堅塩姫は7皇子、5皇女を設け、推古は用明の妹であり、敏達の妃である。用明の後継は用明の弟5名の皇子、用明の嫡男・厩戸皇子、敏達・広姫の嫡男・彦人大兄、敏達・推古の嫡男・竹田皇子と多彩である。泊瀬部の王位継承順位は低い。兄・穴穂部の裏切り、失態も大きなマイナス要素である。なぜ推古は泊瀬部を選択したのか?年齢も大きな要素であり、厩戸、竹田皇子は15歳前後で次世代に先送りされた可能性がある。より重要なのは用明即位の際、敏達系王族と蘇我系王族に大きな軋轢・混乱が生じ、敏達系王族の移住、敏達陵築造の凍結の事態に陥った。この打開策として第3勢力の堅塩媛の妹・子姉君系の泊瀬部が抜擢されたのではないだろうか。もちろん大王としての資質、年齢も評価されたに違いない。
 2)崇峻大王のまつりごと;倉梯に宮を定め、連系のトップ大伴氏の娘・小手子、臣系トップ馬子の娘・河上媛を娶り勢力基盤を固めた。百済から工人集団を誘致、馬子の進める飛鳥寺建造の支援。崇峻2年には国境を定め国内基盤を整備。崇峻4年4月には敏達の墳墓を築造、敏達系王族と蘇我系王族の調停を果たす。8月に欽明、敏達の遺志を継ぎ外交に着手し、推古、馬子の期待に応ずる施策を着実に実行している。その直後10月にまったく唐突に馬子との確執記事、11月に暗殺される。兄・穴穂部が馬子に斬殺されたにも係わらず、物部戦争の蘇我陣営の筆頭皇子に大抜擢され勝利し、大王になった崇峻にとって馬子の怖さ、偉大さ、恩義を感じことがあっても不満を抱く余裕などない。また崇峻を担いで馬子に対峙する豪族は馬子がカリスマの頂点にあったこの時期にあり得ない。
 馬子にとっても蘇我の血統を継ぐ大王であり、期待通りの活躍をする崇峻を信頼すらしても、“自分を嫌っているから排除するような”ちゃちな政治家ではない。
 推古にとっても敏達の墳墓築造が進み、長い殯り儀式から解放され、安堵の日々を取り戻したに相違ない。ただ、敏達系王族、堅塩媛蘇我王族、子姉君蘇我王族を結びつけるキーパーソンと存在感は保持し、崇峻崩御後は大王を受けざる得ない位置にあった。
2.日本書紀はなぜ、誰が、いつ崇峻暗殺の物語を書き換えたか?
 日本書紀研究の権威・森博達によれば日本書紀の編纂順序は文章も正格な漢文書かれたα群が先行し、倭習が見られるβ群が後から書かれた。第14巻雄略記から第26巻斉明までがα群、第1巻神代から第13巻允恭・安康までをβ群としている。ただし暗殺記事のある第21巻の崇峻四月記から第23巻舒明記までがβ群である。この部分は後世に大幅な書き換えを行った可能性を否定できない。
馬子を悪者に仕立て上げるという極めて単純な理由であろう。馬子は我国における仏教興隆の大功労者であり、当時のインテリ層である僧集団の支持は強い。そこで功績を厩戸皇子に振替え、聖徳太子信仰ともリンクさせ、一方暗殺記事の捏造で馬子評価を引き下げること意図したに違いない。
1)不比等を犯人説:不比等を犯人とする研究者も多いが、大津皇子暗殺で持統・不比等体制は確立しており、馬子を悪者に仕立てる動機は弱い、さらに不比等は馬子を敬い、手本としていたと思われる。①不比等の発願し建立した興福寺が馬子の建立した飛鳥寺と同じ三金堂様式を採用されていること②飛鳥寺を平城京に誘致し広大な元興寺としての寺領を与えたこと③蘇我連子の娘を娶り藤原四家の礎としたこと(藤原血統は蘇我腹に不比等のDNAが注入されたともいえる)から推察される。
2)桓武天皇主犯説:蘇我=馬子をも悪者にし、自らの権威を高める必要がある天智系王族―桓武天皇が浮上する。勢力基盤の弱い桓武が強引な政治を行い、都を長岡京、平安京を移し秦氏の全面協力を必要とした。秦氏と厩戸皇子(=聖徳太子)との強い結びつきも無視できない。河上媛のエピソードも飛鳥・奈良の妻問婚での時間感ではなく平安京で匂いがする。(了)
大嘗祭と忌部氏:山腰直仁会員記
 本年は「令和」の年、また新天皇即位の年であり、巷間おめでたい雰囲気で盛り上がっております。
 3年前、世話人会有志と四国の徳島の山中に行きました。それは、阿波忌部氏の末裔である三木氏を訪ねる為であった。その場所は阿波国麻植郡(現・美馬町)三ツ木で、高度552m、もう少し先が剣山という山の中であった。ヘアピン・カ-ブが続く山道を車で約2時間登り、車に酔わない私も、朝食を食べ過ぎたせいか少し酔ってしまいました。やっと辿り着いた三木家は17世紀建造の古民家で、国の重要文化財に指定されていた。三木氏は御衣御殿人ミゾミアラカンドを代々務めた家柄で、平成天皇即位の時も、昭和天皇崩御の報を受け、隣接の畑に麻の種を蒔きました。その畑は齋麻畑イミアサバタとして鳥居が建てられ、周囲は竹垣と鉄条網で囲まれ、厳重に警護された。麻の木の成長を待って収穫し、それを水に浸し繊維を取り、機を織り、麁服アラタエを造り、宮中に納めました。江戸時代の荷田在満によると、宮中に運ばれた麁服は、悠紀殿・主基殿に置かれる。御殿の中央の床に長さ九尺の薄畳を八枚重ねて敷き、その上に寝具である御衾を延べ、頭の所に御単オンヒトエ、裾の床上に御沓を置き、御沓の左右に麁服と繒服ニギタエが小机の上に置かれるという。皇位後継者は真っ暗な暗闇の中で、御殿に独りで一夜過ごし、先の皇位者の霊を招魂して身につける。三木氏は麁服を納めた時、美智子皇后から次の皇太子即位の時もよろしくと言われたという。実際この仕事は、天皇即位の時しかない約30年に一度だけの仕事であり、それでは職業にならない。それを心配して、美智子皇后はお願いしたのであろう。この伝統は何時まで続けられるのか、三木氏の子か孫か。それは全く、忌部氏の伝統を強く意識した矜持というか使命感のみが支える仕事であるからである。今回、平成天皇退位の報を受け、あの三木氏が装束を改めた姿で、麻の種まきをする儀式をテレビで見ることができた。
 忌部氏の系譜は、記紀には忌部氏の遠祖として、太玉が天岩屋戸と天孫降臨の場面に登場してくるが、詳しくは忌部氏の家伝といわれる古語拾遺(807年)に書かれている。高皇産霊神には3人の子があり、栲幡千千姫命・天忍日命・天太玉命で、天太玉命が忌部氏の祖神とある。またその系譜には天富命や天日鷲神などがいる。天岩屋戸の場面では、太玉神は、長白羽神には麻を植えて青和弊アオニギテを、天日鷲神と津昨見神には穀カジの木を植えて白和幣を作らせた。また、天羽槌雄神には模様入りの布を織らせ、天棚機姫神には神の着る衣を織らせたとある。ニニギの天孫降臨に従って天太玉命とアメノコヤネが天降る際、天太玉命には特に「地上においても諸神を率いて職業専念、天岩屋戸で制作したような御物を作れ」と命じられた。後に神武即位の大嘗祭には、天富命は大嘗祭に必要な神宝の鏡・玉・矛・盾・木綿ユウ・麻等の祭祀具を造らせた。また天日鷲命の孫は、木綿・麻・織布アラタエを造ったとある。このように忌部氏は、当初から麻の祭祀具に係わるようになっていた。
 しかし絹なら分かるが、何故、一般的な植物繊維である麻を大嘗祭という重要な儀式に用いられるのか。 また麻はどこの地域でも大差なく作れるのに、何故、良い麻を求めて忌部氏はその適地を探し求めたのか。良い麻とは何なのか。麻は、縄文時代から続く伝統のある繊維ぐらいにしか思っていなかったが、山口博氏は、それは大麻であるからという見方をなされた。現在ではそういうことはないが、古代では、支配者は民を統治するために、シャ-マニズムも必要な場面があったであろう。卑弥呼の鬼道もそうであったと言われている。忌部氏は祭祀を司る氏族としてそういう麻を重視していたのではないか。そして、そういう麻栽培の適地を求めて、あの徳島の山奥に辿り着いたのではあるまいか。 (完)
参考資料:山口博著「大麻と古代日本の神々」
2020年・海外旅行のご案内
1.目的地:ベトナム、カンボジア
2.時期: 2月17日(月)~26日(水)。10日間
3.日程と主な訪問先(予定):
  2  2月17日(月) 成田発10:00、ハノイ着14:2
(飛行時間6時間25分)。ハノイ泊
    2月18日(火) ベトナム国立歴史博物館、民族学博物館、タンロン王城遺跡。ハノイ泊
2月19日(水) 古都フエ観光。フエ泊
       2月20日(木) ミーソン遺跡群。ホイアンへ移動。ホイアン泊
 2月21日(金) 古都ホイアン観光。ホーチンミンへ移動。ベトナム歴史博物館。 ホーチンミン泊
    2月22日(土) ホーチンミン市内観光。シェムリアップへ移動。シェムリアップ泊
    2月23日(日) アンコールワット遺跡群。 シェムリアップ泊
    2月24日(月) アンコールワット遺跡群。 シェムリアップ泊
    2月25日(火) アンコールワット遺跡群。 シェムリアップ発21:35、ホーチンミン着22:50
    2月26日(水) ホーチンミン発00:15.成田着7:45(飛行時間5時間30分
4.旅行代金:諸費用含め40万程度(二人部屋の場合は35万程度)
5 5、今後の予定:9月7日説明。10月5日、11月2日で募集
6.連絡先:市川達雄(080-5193-0867)
渡部真樹子(090-6022-4312)
12月ゼミの再変更
米野 博会員(90分)が辞退しましたので、代わりに、小川 孝一郎会員が発表します。
11月2日 ゼミ・テーマ(敬称略)
13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
後期青銅器文明の崩壊と「海の民」-亘 康男
10月12日 世 話 人 会 日 程
13:00~17:00
 機械振興会館6階-61会議室(神谷町駅)

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