古代史ニュース 2019.08.31 No.290

「乙巳の変~壬申の乱までの政治動向」を考える
―9月7日ゼミ紹介文 飯田 眞理会員記―
【はじめに】628年の推古大王逝去から天武朝成立まで、倭国の王権内部において様々な政変が起こりました。ほとんどが東アジア情勢に起因していると考えます。賛同できる諸説を取り入れて自説を述べます。特に中臣鎌足と中大兄王子の虚像については強調したいです。
1.蘇我本家滅亡の芽は舒明大王の即位
推古大王の後継大王として、なぜ蘇我氏一族は結束して蘇我氏系の山背大兄王を擁立できなかったのか、その理由は、前回に述べたように父親である聖徳太子が遣隋使の失敗により政治生命が絶たれていたことと考えます。それゆえに田村王子(舒明大王)が即位しました。しかしながら、このことが非蘇我系の勢力を強めることになり、結果的に蘇我本家滅亡の道をつくったのです。
2.舒明朝における反蘇我の蠢き
当時、新羅は百済・高句麗と戦争状態にあり唐に支援を求めていました。舒明4年の高表仁を伴っての遣唐使の帰国は新羅を経由しています。唐としては倭国に対して、新羅を支援するように伝えたと考えられます。しかし王権の最大勢力であった蘇我氏は親百済反新羅であり、これを拒否したのでしょう。『舊唐書』には、唐の高表仁が訪日したとき、「表仁、綏遠の才無く、王子と禮を争い、朝命を宣べずして還る。」と記されています。この王子は山背大兄王と考えられます。山背大兄王も父親に続いて政治的汚点を残したのです。そして転機は舒明12年の、高向漢人玄理らの新羅を経由して唐からの帰国です。反蘇我勢力が蠢き始めたのは、このときからと推測します。高向玄理と既に帰国していた僧旻は反蘇我勢力の力強いブレーンとなったと考えます。二人とも孝徳朝において国博士になっています。おそらく二人は、唐の先進的な政治文化制度を取り入れる必要性を説き、そのためには、蘇我氏を排除しなければならないことを力説したのでしょう。
3.上宮家(山背大兄王一族)殲滅の首謀者
舒明の後継として王后が即位します。(皇極大王)ここでも最有力の山背大兄王は即位できませんでした。そして皇極3年(643年)山背大兄王一族を殲滅する事件が起こります。蘇我入鹿が首謀者と記されていますが、日本書紀編集者の捏造だと考えます。首謀者は軽王子(孝徳大王)と考えるのが適切です。直接殺戮を行ったのは、巨勢徳太臣です。また他の史料には大伴馬甘連も参加したとあります。二人とも舒明大王の葬送の際に、誄を読んでいて、孝徳朝において左大臣と右大臣に任じられています。軽王子(孝徳)の配下であったのは明らかです。入鹿は古人大兄王子を擁立したい思惑から、首謀者たちに誘われて殺戮に賛同しただけと考えます。
4.中大兄王子と中臣鎌足の虚像
645年の乙巳の変については、多くの専門家たちは中臣鎌足と中大兄王子が首謀者とする日本書紀の記述を真実として受け入れています。しかし疑いをもって検討すると、この事件に関する日本書紀の記述のほとんどが創作であることがわかります。
➀中大兄が首謀者なら、中大兄が即位するかまたは母の皇極が大王を続けるほうが都合よいはずです。つまりこの事件の首謀者も軽王子であったのです。
②鎌足と中大兄の出会いの話は明らかに創作であり、大王位継承について中大兄たちが語る際に、鎌足だけが登場するのも不可解です。
③まだ若輩の中大兄や小官僚の中臣鎌子が王権の中心になれるはずがありません。
④入鹿殺害についても、活劇を見ているような描写で、到底真実とは思われません。入鹿の殺害は王宮とは別の場所で行われた可能性もあります。
5.中臣鎌子(鎌足)の存在を疑う
中臣鎌子(足)という人物はほんとうに実在したのでしょうか。鎌子は創作された人物であり、藤原不比等の父は他の中臣氏の人物であった可能性があるのです。
➀皇極紀から天智紀までの鎌子に関する記述は全て史実性が弱く、藤原氏の祖として鎌子を偉大な人物として描く記事ばかりです。
②孝徳元年645年に内大臣に任じられて、天智8年669年に亡くなるまで内大臣であったことは信じられません。そもそも内大臣や神祇拍の官職は律令時代にできたもので、当時はまだ存在しなかったということです。
③欽明朝に登場する中臣鎌子という人物は不比等の父とは別人とされていますが、不比等の父を中臣鎌子として捏造したとの説があります。欽明朝の中臣鎌子は尊卑分脈の中臣氏系譜には記載されていないのです。さらに鎌足の父親は御食子とされていますが、日本書紀にはその記載がありません。不比等の中臣=藤原氏は、欽明朝の中臣氏とは別で常陸から来たとの説が有力です。 ④斉明紀から天智3年まで鎌足は全く登場しません。内大臣なら重要な外交や政変に鎌足の記載があるはずですが、鎌足は登場しないのです。
6.大化の改新と孝徳朝
 大化2年の「改新の詔」は、奈良時代に潤色されたことが明らかになっています。しかし孝徳朝に国政改革を目指したのは真実と考えます。改革を主導したのは中大兄と鎌足ではなく、高向玄理と僧旻をブレーンとする孝徳大王と左大臣阿部内麻呂であったと考えるほうが適切です。高向玄理は新羅を何度か訪れていて、親唐親新羅で非百済の外交政策であったこともわかります。ただし、改革は多くの氏族たちの抵抗によりほとんど進まなかったと推測します。そして抵抗勢力は皇極王太后と中大兄を奉じて孝徳王権に対してクーデターを行ったのです。それが中大兄や群臣たちによる難波から飛鳥への帰還だったと考えます。失意の孝徳大王は亡くなり、居場所をなくした高向玄理は遣唐使の一員として唐へ逃れたのです。
7.斉明即位と白村江の戦い
 654年孝徳没後にも、中大兄王子は既に30歳に近い年齢なのに即位しませんでした。その理由はわかりません。いずれにしても、外交は反新羅親百済に転換します。660年百済の滅亡後、斉明王権は百済の遺臣たちの要望を受け入れ、新羅攻撃と百済救援の計画をはじめます。明らかに孝徳朝とは真逆の外交です。
8.白村江の敗北から壬申の乱へ
項目のみを記します。①倭国敗北後の唐との関係②天智大王の死のなぞ③天智天武異父兄弟説④壬申の乱と天武政権
≪終わりに≫
 日本書紀とは虚偽に満ちた歴史書であることがわかりました。中臣鎌足と中大兄王子については、まさに「(藤原不比等と舎人親王らによる)奈良時代における近代史捏造」であると感じてしまいました。以上。
マタギ
―9月7日ゼミ紹介文:二階堂剛会員―  陸奥(むつ)の雪深い山峡に生きてきた狩人=マタギ,過酷な環境の中を今日まで生き抜き、今亘にその歴史を終わろうとしているマタギ、彼等山人達の歴史と生活は今なお謎に包まれている。“マタギ”という言葉は、「狩り」と「狩人」の両方の意味に使われているが,その語源は諸説があり、定かではない。マタギという言葉の分布は広い。秋田は勿論、青森から新潟に至るまでこの言葉は生きている。アイヌにもマタギという言葉がある。
 私の出身地・秋田県では、一般に平野の人々は、熊狩りのことを、マタギと呼ぶ。一体、マタギの語源は何だろうか。
 北海道アイヌについて、専門家の高倉新一郎氏は「マタギはアイヌ語かどうか判らんが、マタギするというように言って、マタギはアイヌ 間に普及している」と述べている。北海道アイヌの使用している「マタギ」という語は果たしてアイヌの言語であるのか、はたまた、本土からの輸入語であるかは、判然としていない。
 また、樺太のオロッコ人も狩猟に出ることを「マタギに行く」と言っている。樺太アイヌ人も同様である。日本人は「マタギに行く」と言いならして、古くから”マタギは普遍化した日本語となっていたようである。 マタギの歩幅は広い。殊に熊狩りの際、遠くに跳ぶマタギが優秀マタギとされていた。 熊などに打ち掛かる際には、全く神がかりと思う位の歩幅で飛ぶ。彼等は下手なマタギのことを「便所(かんじょ)跨ぎ(またぎ)」と言って軽蔑する。このようにマタギが「跨ぐ」ということに関連しているのは、注目する価値がある。
 故・藤沢清二氏(秋田県角館町出身)は、「山立」が「マタギ」に訛るのが当然だと言っている。山立は山で果て,川立は川で果てるという意味がある。
 マタギ達はマタギ衆を精神的に支えている秘巻「山立根本・由来之巻」を信奉しており、仏教哲学を以て、獣肉を食するとも地獄に落ちることはない、と許されたのである。 秋田県北の大館市十二所町にある老犬神社の由緒による万三郎は、藤原鎌足を遠祖とし、その子孫に当たる下野の押領・藤原秀郷(ひでさと)の後裔という。由緒書では、秀郷の後裔がマタギの始祖となっている。  角館町の狩猟研究家・宮本彰一郎氏の話によると、昭和19年4月に、奥羽山脈高下岳へ、熊マタギに行った時である。雄同士の熊の激突した跡を発見した。12m四方位の面積に亙って、土が熊の四肢で掘り抉られ、その地帯一面に,熊のヤ ゴリ(血)の塊が散乱していた。雄同士の熊が雌熊を取り合って、血みどろの決戦が行なわれた様子が、その跡に表れていたという。雄同士の決闘は、熊の特徴とする強打、掌を武器として行なわれる。立ち上がって、互いに強打の連続、さながら熊のボクシングの様相である。
一方が負けて去るまで、闘うのである。晴れて勝ち残った雄熊は、どこかの母親に捨てられた処女のメス熊に挑むのである。熊の交尾季節はマタギ達に諸説があるが、大体穴を出た4月中旬から5月下旬というのが多い。  冬眠中の熊は、数カ月間に亙って殆んど外に出ない。春の土用になって、木の根開き(大木の根回りの雪が先に溶け始め、その部分の口が開くこと)の頃になると穴から出る。その場合、子熊から先に出るらしい。穴を出ると雪の上を盛んに踏み歩く。次いで親熊が出る。 [][]」は、晴ら 東国シリーズのなかで、東北は隣接の関東とも異なり独自の地域であり、蝦夷、金属、物部氏にも焦点を当てて、縄文、弥生、平安時代の画期的出来事なども取り入れて講演します。了。
崇峻大王はほんとうに馬子に暗殺されたかⅠ :山田 英夫会員記
その1-墳墓から考える
 日本書紀の崇神天皇五年十一月条『馬子宿禰、東漢直駒をして天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡陵に葬りまつる。』とある。古事記には何ら特別な記載はないにも拘らず、ほとんどの古代史文献学者、考古学者もこれを通説としている。通説に慎重な学者でもまるで枕詞のように暗殺された安康・崇峻天皇と無批判に使っている。安康天皇の場合は日本書紀と古事記に矛盾した記載はない。古事記は推古朝で終わっており、崇峻朝は直近の事案でありながら大王暗殺という重大事件にまったく触れなのは不可解である。本稿では崇峻の墳墓を中心に暗殺の有無、馬子の関与を探ってみたい。
1) 崇峻大王の墳墓
① 真墓はどこか

崇峻天皇陵は宮内庁により桜井市大字倉梯に明治22年倉梯岡陵として治定されている。同地に位牌を祀る金福寺があることが根拠とされる。倉梯川沿いの径35m、高さ1mの円墳である。しかしながら古事記には倉梯岡上と記載があり矛盾すること。斬殺された兄・穴穂部の墓とされる藤の木古墳に比してもあまりに貧相であること(墳ではなく冢)、同じ倉梯の赤坂天王山古墳が地元では崇峻陵と伝承されていたこと、森浩一が考古学的見地から天王山古墳が崇峻の真墓と提案され、現在ではこれを否定する研究者はいない。
以上から本稿では赤坂天王山古墳を崇峻大王の真墓として論を進める。
立地;赤坂天王山古墳は王族の故地、忍坂谷に近接した丘の上に築かれている。開口部の先に三輪山が眺まれ、山の風景を利用した絶好の立地にある。泊瀬の郷も近く崇峻の諱・泊瀬部皇子の所縁も想定できる。
墳形と規模;一辺50mの三段築成による大型方墳である。これ以降造墓された有力者―用明大王、竹田皇子、来目皇子、馬子大臣、推古大王、蝦夷大臣―の墓はほぼ方墳であり、舒明の八角墓出現まで50年間の墳形の画期である。馬子の墓とされる石舞台古墳の径55mに迫る規模を誇る。
埋葬施設;巨石を3段に積み上げた巨大両袖式石室構造。全長15.2m、玄室長6.5m幅3.1m高さ4.2mの堂々たる石室である。石室の大きさ、特にその幅は直接投下される労働力に比例する。鏡石、天井石の大きさを規定するからである。石舞台古墳の石室幅3.4mに迫る規模である。
石棺;王者の石棺と言われる刳抜式家形石棺で、長径2.4m短径1.7m底辺面積40.8㎡の巨大さで欽明大王の石棺とされる丸山古墳の前棺面積3.99㎡を上回る規模を示す。
まとめ;天王山古墳の立地、墳形・規模、石室構造・規模、石棺形状・規模いずれをとっても大王の陵墓にふさわしい、当時最大、最先端の墳墓であることは明白である。暗殺を命令したとされる馬子の石舞台古墳と比較しても(35年先行するので)遜色はない。当時、敏達や皇極の例が示すように大王・支配層の合意なしには造墓はできない。この墳墓の築造には多大な労働力・財力の投入が不可欠であるからである。したがって、馬子もこの墳墓築造に当然合意している。まして、暗殺した大王とまったく同系列の墓に馬子自身を埋葬することなど考えられない。さらにはこの墳墓が画期となって50年間有力者の墳墓が築造され続けたとは到底考えられない。
墳墓から導かれる結論は、崇峻大王は暗殺されたのではない。馬子も暗殺を命令してはいない。石棺が地元の二上山凝灰岩が採用されていることから急死したことは間違いないだろう。日本書紀の記述に猪に絡んだエピソードが創作されていることから猪狩りでの不慮の事故によると考えるのが妥当ではないだろうか。
2)誰が築造したのか?
この問題を解くカギは彦人大兄の真墓が確実とされる牧野(ばくや)古墳と天王山古墳が極めて類似していることから同一の工人集団によって築造されたとされることである。崇峻年4月条に敏達を磯長陵に葬るとある。敏達の崩御が585年、広瀬に喪屋を建つとあり、蘇我系王族用明の即位とわずか2年後の崩御の混乱で墳墓築造が合意できず、やっと崇峻5年調停・合意できたとすれば、敏達の嫡男・彦人大兄が崇峻の墳墓築造に協力する事は充分ありうると考える。天王山古墳が崩御直後595年ころ方墳で築造、次いで推古元年用明大王を磯長に方墳で築造、607年ころ彦人大兄崩御広瀬に円墳を築造、崇峻・用明大王陵に配慮し円墳を選択したのかもしれない。
 この当時の政治状況、日本書紀の暗殺記事の背景等は誌面が尽きたので次稿で明らかにしたい。
 通説を疑うことはなかなか骨の折れる作業で、まとめるのに随分時間を要した。忌憚のないご批判をいただければ幸いです。続。

12月ゼミの変更
大道 豊彦会員が都合により退会しますので、代わりに、永井 輝雄会員が「『魏志』倭人伝 私の理解 第3部」(2時間)を発表します。尚、米野博会員は当初通りです。

10月5日 ゼミ・テーマ(敬称略)
13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
➀古代王権の祭祀と女性―倉重 千穂。
②騎馬文化と古代日本―市川 達雄

9月14日 世 話 人 会 日 程
13:00~17:00
 機械振興会館6階-61会議室(神谷町駅)


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