古代史ニュース 2019.07.31 No.289

闕史八代について考える
―8月3日ゼミ紹介文:鈴木 慧会員記―
第二代綏靖天皇から、第九代開化天皇までの八代の天皇については、記紀の記述が、系譜、宮殿の場所、陵墓の位置が記述されているだけで事跡についての記述がないことから、闕史八代と称されている。昭和15年発禁となった津田左右吉博士の「古事記及び日本書紀の研究」にて、その存在が否定され、戦後、いわゆる皇国史観の全面否定とともに記紀の文献価値は暴落し、学会においては当該八代の非実在説は定説となった感がある。一方で、その実在を否定するにはその根拠は薄弱であり、その可能性があるに過ぎない、さらに存在する可能性は高いと理由をあげて主張する研究者もいる。
闕史八代の存在の有無について、改めて考えていただく機会となるよう両者の主張を紹介する。
1.闕史八代とは
 ・八代の漢風諡号と和風諡号の紹介
 ・八代に関する記紀記述の紹介
2.存在、非存在両論の主な主張者について
3.非存在説の根拠、理由
  ・系図的な記事のみでその事績についての記述がない
  ・名前(和風諡号)が後世的である
  ・系譜がすべて父子継承の直系で単純すぎる
  ・記紀成立の八世紀から遡ること少なくとも7百年昔のことであり、文字を知らなかった日本人がそのような昔のことを記憶、記録していることは疑しい
4.実在の可能性を主張する根拠、理由
  ・后妃の出自が後世の后妃の出自と異なる
  ・都の所在地が奈良県西南部に集中している
  ・陵墓の所在地及び築かれた地形が初期的である
まとめとして、歴史学者林健太郎の記述を取り上げ、最後に私見を紹介することとする。   以上。
記紀にみえる神名および天皇名の意味の概要
―8月3日ゼミ紹介文:井上 政行会員記―
古事記および日本書紀は、古代史研究の無二の基礎史料であるが、いずれも原本は漢文体で書かれている。したがって、これらは原則として漢語で書かれているが、記事の一部には原日本語である縄文語で伝承された神名とその関連名(その神にまつわる地名、事件名等を含む。)および天皇名とその関連名(その天皇の和風諡号、幼名、子の名、皇后の名、宮居の名、陵の名、在世中の重要事件に関連する地名、人名、事件名等を含む。)が含まれる。これらの縄文語は、伝承された発音を音読の漢字または訓読の漢字にあてはめて表記されて、古事記および日本書紀が編纂されている。我々が通常読む記紀は、原本の読み下し本か、現代日本語に翻訳した本である。その表記および内容には、かなりの問題がある。
第一に、特に日本書紀全体についての問題でもあるが、そもそもの編纂の目的が、ヤマト政権の首長が天神の子孫で、かつ万世一系であり、立派な天皇を代々輩出してきた歴史を有することを中国および近隣の東アジア諸国に誇示することにあったとする認識がすでに定説化しており、この目的から日本書紀の本文および縄文語の漢字表記の部分中必要な箇所に必要な修正が加えられていることは事実と考える。具体的には、①天孫降臨神話の創造、②天皇の和風諡号に「日本(やまと)」名の使用、③顕宗天皇の発した雄略陵の破壊命令の改ざん、④厩戸(うまやと)皇子の名と生誕説話の創造、⑤斉明天皇を非難する白村江敗戦の童謡の記事などである。
 第二に、日本書紀の編集者が縄文語の意味を全く理解してはいないが、本文等記載の内容、文脈等から特定の縄文語の意味を推定し、それに合わせて漢字表記の熟語を作成したり、本文の記事に必要な修正を加えたりして、伝承された縄文語の発音を訓読の訓として付けたものがある。例えば、①天照大神(あまてらすおほみかみ)の名、②伊弉諾(いざなぎ)尊が泉津平坂(よもつひらさか)で伊弉冉(いざなみ)尊に渡した絶妻之誓(ことど)などである。
 第三に、日本書紀の編集者が縄文語の意味を全く理解してはいない状況下で、縄文語の発音を漢字の音読または訓読にあてはめる際、たまたま宛字の漢字の字義とその並びが既知の日本語として意味が通じるか、または意味が理解できるかのように思われることがあり、これを子細に検討することなしに文章化したものがある。例えば①少彦名(すくなびこな)命は、小人とされているが、風土記との比較、原ポリネシア語による縄文語の意味の解釈によれば明らかに大男である、②事代主(ことしろぬし)神が海中に造った八重蒼柴垣(やへのあおふしがき)に入って避(さ)ったという蒼柴垣(あおふしがき)の故事、③真床追衾(まとこおふふすま)の故事、④「浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たし」の句などである。
 第四は、上記以外のもので、日本書紀の編集者が縄文語の意味を全く理解してはいない状況下で、縄文語の発音を漢字の音読または訓読にあてはめる際、宛字の漢字の字義とその並びが既知の日本語と比較して全く意味が通じないことがあり、これが①歴代天皇の和風諡号を始めとして多数を占めている。この中には、②漢字表記の訓みが複数あるもの(例えばこれは日本書紀ではなく続日本紀であるが、井上皇后の名は「イノウエ」か「イカミ」か)もある。これらの問題は、原ポリネシア語による縄文語の意味の解釈によってすべて明確になる。了。
三種の神器
―渡部真樹子会員記―
皇位継承において、大前提となる三種の神器は古来皇位の保証であるとされている。この三種である、玉、鏡,剣はいかにして我国の究極の神宝となったのであろうか。これは、戸矢 学が「三種の神器」(河出文庫)のなかで、詳しく述べている。以下はそれを纏めたものである。
まず現在 ○1八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の本体は宮中に②八咫鏡の本体は伊勢皇大神宮に③草薙剣(くさなぎのつるぎ)の本体は熱田神宮に鎮座している。源平合戦の終幕、安徳天皇とともに、曲玉,剣は、海中に失われたと伝えられている。曲玉は木箱ごと浮いたため回収され、鏡は船上にあった。しかしそのはるか昔、第11代垂仁天皇の御代に鏡は伊勢の内宮へ、第12代景行天皇の御代に剣は熱田神宮に納められており、宮中に置かれていたのは分身であり本体ではなかった。天武天皇は三種の神器を制度として初めて制定した。そしてそれを広く宣言し、記、紀にも記録して、神器の由縁を天孫降臨にまで求めた。以後皇位の象徴は三種のセットであるとあまねく知られるようになった。記、紀に記された、神器それぞれの由来を探ってみたい。
① 鏡 八咫の鏡は高天原で、イシコリドメに造らせた物を、天孫降臨にあたって、アマテラスがニニギに授けたものである。日本書紀には、崇神天皇の御代に倭姫命に託して伊勢の内宮に納められたと書かれている。以後伊勢の地を動いたことはない。
② 剣 スサノオがヤマタノオロチを退治した際に、その尾から出てきたとされている剣は、スサノオからアマテラスに献上された。そしてニニギに授けられ天孫降臨の際に携えられた。それが第11代垂仁天皇の皇女倭姫命へと引き継がれ、伊勢の地に御鎮座となった。倭姫命からヤマトタケルに授与された天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は後に熱田社において祀る際に、草薙剣と呼び名が変えられた。
③ 八坂瓊曲玉 唯一宮中にとどまり続ける究極の秘宝であり、その由来は神器三種中の最大の謎である。日本書紀には、出雲大社に納められている神宝を崇神天皇が献上させたと書かれている。これはイザナギがアマテラスに与えた玉璽であろうと思われ、四種の玉飾りである。ニギハヤヒが天孫降臨の際にアマテラスから授与された十種の神宝の中の四個の玉を加えて、現在宮中にあるのは八個からなる連珠であると、戸矢 学は推測している。
三種の神器は皇位の保証という思想は天武帝によって発想されたものであるが、その原型は古代中国に見られる。良渚文化(BC3000頃)の発掘調査により、王宮跡から大量の玉製品が発掘された。その中に王権を象徴する、玉琮、玉璧、玉鉞が出土した。我国では、玉、鏡、剣は弥生中期の北九州の古墳から、古墳時代には近畿の古墳に副葬品として納められている。
はるか良渚文化の頃より三種による王権の象徴化はおこなわれていた。これを天武天皇により三種の神器として公式に認定され、今に至っている。これだけ長期間守り続けてきたものが、確固として存在する、それが日本人という民族なのだというに説に大いに共感を覚えている。 <完>
武蔵国新羅郡・高麗郡と摂津国百済郡について
―磐城 妙三郎会員記―
昨年11月に埼玉県和光市、朝霞市、志木市、新座市の4市による「新羅郡の時代を探る」
というテーマの特別展と記念シンポジュームが開催されました。私が住む練馬区と隣接した市で興味もあったので見学と聴講をしてきました。志木と新座の地名については新羅からの渡来人が住み付いたことに由来することは知っていました。志(ら)木、新羅→新倉(にいくら)→新座(にいざ)。高麗郡の存在も知っていましたが、高麗は高句麗の2文字表記として地名とされたようです。新羅郡の建郡は「続日本紀」天平宝字2年8月条(758年)に「帰化の新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移す。是に於て、始めて新羅郡を置く。」とあります。新羅は660年に唐と連合して百済を滅亡させています。さらに668年には同じく高句麗を滅亡させ、その後統一新羅として900年まで存続します。存続している国の国名を冠した新羅郡を武蔵国に置いたことになります。実は滅亡した百済については日本に残された百済王子善光に百済王氏を下賜され、その一族とともに摂津国難波に居を構え貴族として朝廷に仕えていたとのことです。「日本書紀」天智天皇3年3月条(664年)「百済王善光を以って、難波に居らしむ」とあります。なお百済郡としての文字資料は霊亀元年(715年)の長屋王木簡にみえるそうです。善光から数えて4代目の敬福が聖武天皇のとき陸奥国で金を発見し異例の出世をしてその本拠地を難波から河内国に移しますが、それまで百済郡は存在していたと推測されます。一方、高麗郡の建郡については「続日本紀霊亀2年5月条(716年)」に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人千七百九十九人を以って、武蔵国に遷して始めて高麗郡を置く」とあり、こちらも高句麗が滅亡した668年から数え48年後となります。『続日本紀』大宝3年4月4日条(703年)に、従五位下高麗若光に王(こにきし)のカバネを与えたとの記述があります。シンポジュームで基調講演を担当した宮瀧交二教授(大東文化大学)によれば百済郡、新羅郡、高麗郡の建郡の背景には当時の東アジアにおける外交関係が深く関わっていると指摘していました。すなわち当時の日本は東アジア世界における唐に次ぐ地位を確保するために、唐に学んだ「日本型中華思想」の構築を目指して、滅亡した朝鮮半島の百済、高句麗に加えて新羅をも含む三国を支配下におく権力構造を演出するためとしています。その中で、旧同盟国であった百済については畿内に郡を置いて、その王族を貴族として朝廷に仕えさせる一方、かつて戦火を交えた高句麗や新羅からの渡来人を蝦夷に隣接する東国の辺境の地に服属、居住させたのではないかとしています。ただ新羅郡の建郡については国際的な緊張を高める可能性から先送りされたと推測しています。新羅の朝鮮半島統一後、渤海国が建国され、新羅と渤海はたがいに日本との使節の交換が頻繁になりますが新羅は日本に対して対等の関係を要求し続け政治的対立が悪化していきます。そのような情勢下で新羅郡の建郡がされており新羅に対する在日新羅人政策であったように思います。 完。
饒速日尊は天照大神の孫
―飯田 眞理会員記
1.≪天火明=饒速日≫
①平安時代に編纂されたとされる先代旧事本紀において、物部氏の祖の「饒速日」は皇孫の邇邇芸尊の兄であり「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」という名で記されています。ところが記紀では、「天火明」は邇邇芸の兄ですが、「饒速日」はこの神とは別神のように記されています。よって、ほとんどの古代史家は、旧事紀編纂者が「饒速日」と「天火明」を合体させたものとしています。しかし、それらは明らかに誤りです。というのは、邇邇芸尊も正式には「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸尊」であり、邇邇芸(および饒速日)の父も「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」であり、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と類似した名です。「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」が二つの名を合わせたものではないことは間違いありません。「饒速日と勝速日」は親子、「ニギハヤヒとニニギ」は兄弟であることは真実であると考えます。
②筆者は先代旧事本紀の記述を全て真実であるとは考えていません。日本書紀や古語拾遺の内容を多く取り入れていて、世代系譜に矛盾もあります。しかしながら、日本書紀には先代旧事本紀と同じ内容がいくつか記載されていて、日本書紀成立以前に既に物部氏の「家伝」が存在していたことは明らかです。天神本紀、天孫本紀、国造本紀などには、物部氏の独自伝承と思われることが多く記されています。
③物部氏は天神氏族でありながら、大伴氏や中臣氏と異なり、神代における遠祖の名が記紀に記載されていない不可解さがあります。「天火明=饒速日」であり天照大神の孫であることによって、その不可解さが解消されるのです。さらに、先代旧事本紀巻五・天孫本紀では「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、亦の名は天火明命、またの名は天照国照彦天火明尊、亦は饒速日命と云ふ。」と記されています。これは、旧事紀編纂者が、日本書紀に記される「天火明命」、「天照国照彦天火明命」、「饒速日命」は全て同一人物のことであると、日本書紀の記述に異を唱えているように感じます。記紀において、「天火明」と「饒速日」を別神のように記したのは、おそらく、物部氏の祖先が天皇家の祖先より上位であることを隠そうとしたのでしょう。
④記紀ではⅰ)天火明は尾張氏の祖であると記します。ⅱ)一方、先代旧事本紀では、饒速日の高天原時代の子の天香語山命が尾張氏の祖であると記します。ⅲ)そして、宮津市の籠神社の国宝『勘注系図』では、天香語山命は天火明の子であると記載されています。ⅰ~ⅲから三段論法で、「天火明=饒速日」になります。また、日本書紀でも必ずしも「天火明」と「饒速日」を別神とは断定していません。饒速日が帰順するときに、神武は「饒速日が天神の子であること」、つまり「神武と饒速日が同族であること」を日本書紀編集者が認めているのです。この事も、「天火明=饒速日」を補強します。
2.≪天孫降臨と神武東征について≫
大国主の国譲りの後の天降りについてもうまく説明できます。天照大神の太子である「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」の後継者は邇邇芸尊ではなく兄の饒速日だったのです。よって饒速日が葦原中国である河内とヤマトへ天降ったと考えます。一方、弟の邇邇芸のほうは葦原中国ではない南九州へ天降ったということです。その後、神武は饒速日が天降った地を目指したことが日本書紀にも記されています。そして、神武東征がなされた理由についても、先代旧事本紀・天神本紀から説明できます。「饒速日尊は長髓彦の妹の御炊屋姫を妻として・・まだ子が生まれないときに、饒速日尊は亡くなった・・高皇産霊尊はあわれと思って・・饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ・・天上で葬った。」饒速日は神武東征以前に亡くなっていたのです。その結果、河内やヤマトでは北部九州勢力は主導権をとれなくなり、在地勢力が主導する政権となったものと考えます。よって母国九州の指導者たちとしては、邇邇芸の子孫による東征をさせることになったと推測します。
★蛇足を述べるなら、「天照」とは元々饒速日に冠せられたものであったものが、饒速日の祖母の「大日孁貴神」に冠せられて「天照大神」となり、記紀では饒速日からは「天照」の字が消されたと推測します。その根拠は、鏡作坐天照御魂神社(奈良県田原本町)天照玉命神社(京都府福知山市)、天照神社(福岡県若宮市)伊勢天照御祖神社(久留米市)など「天照」の字が付される式内社の祭神のほとんどが、天照大神ではなく天火明や饒速日であることです。
3.≪饒速日が奈良盆地をヤマトと名づけた≫
日本書紀・神武紀の最後の次の記述は極めて重要です。「饒速日命は天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので名づけて『空見つヤマトの国』という。」高天原から天降った饒速日が奈良盆地をヤマトと名づけたということです。このことは先代旧事本紀にも記されており、おそらく日本書紀編纂者が物部氏の「家伝」を引用したのでしょう。その「家伝」は、物部連麻呂(藤原不比等の先輩)などから提供されたと推測します。筆者は、魏志倭人伝に記す邪馬台国は北部九州に存在したことは間違いないと考えています。そして、この記述は邪馬台国東遷説の大きな根拠になります。また、「高天原=北部九州、天照大神=卑弥呼」との説に賛同します。この『空見つヤマトの国』について次のように考えます。卑弥呼=天照大神の後継者(孫)である饒速日が、「故郷の邪馬台国(ヤマト国)の名を移して、奈良盆地をヤマト名づけた」ということです。その饒速日の東遷は卑弥呼の後の4世紀第Ⅰ四半期頃、神武(=崇神)東征は第Ⅱ四半期頃で、ヤマト王権が成立して古墳時代がはじまると考えます。考古学的にも、北部九州の弥生文化が古墳文化に継承されていることと合致するのです。以上。
古代史ツアー「美濃一泊二日」のご案内
2019年11月ツアーは、「遠江・駿河」の予定を、「美濃の古代・中近世」ツアーに変更して実施します。
参加をご希望の皆様は、以下のツアー概要を参照の上、早速、お手元の手帳に日程をお書込み下さい。
★ツアー概要
1.日程 2019年11月16日(土)~17日(日)
2.主な探訪予定地
  羽島円空資料館、南宮大社、美濃国府跡、美濃国分寺跡、昼飯大塚古墳、琴塚古墳、岐阜市歴史博物館、関鍛冶伝承館、旧今井家住宅・美濃資料館、杉浦千畝記念館、美濃陶磁歴史館、永保寺庭園、小牧山城史跡情報館等。
3.募集 2019年9月、10月のゼミ会場にて。
4.幹事:米野博、岡安良宣会員。
5. 問合せ先:メール:h.yoneno@gmail.com
     :電話:090-7194-9198
9月7日 ゼミ・テーマ(敬称略)
13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
➀「乙巳の変~壬申の乱」までの政治動向を考える―飯田 真理。
②マタギ:二階堂 剛
8月10日 世 話 人 会 日 程
13:00~17:00
 機械振興会館6階-61会議室(神谷町駅)

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