古代史ニュース 2019.6.30 No.288

『魏志』「倭人伝」私の理解 第2部
―7月6日ゼミ紹介文:永井 輝雄会員記―
1.倭国乱、卑弥呼共立の時期
陳寿は『魏志』倭人伝で、「男王が七、八十年間王位にあった時点で」倭国乱が起ったと書く。しかしこれではその時期が確定しないので、范曄(はんよう)は『後漢書』倭伝(432)で、「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもご)も相攻伐し、歴年主無し」と書いて、倭国大乱の時期は、桓霊の間(147~189)と推定した。姚思廉(ようしれん)は『梁書』倭伝(629)で、「漢の霊帝光和中、倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち一女子卑弥呼を共立し王となす」と書いて、倭国乱の時期は、光和年間(178~184)と推定した。内藤湖南は、これらの異伝史料(『魏志』、『後漢書』、『梁書』)はすべて『魏略』を母史料として成立したものであるとして、『魏略』の原文を「安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等 生口百六十人を獻じ、請(せい)見(けん)を願う。漢の霊帝光和中(178~184)、倭国乱れ相攻伐し、歴年主無し」と推定した。私はこの推定を採用して、倭国乱の時期は霊帝光和中(178~184)で、卑弥呼が女王に共立された時期は、中平年間(184~189)と考えたい。倭国乱の時期は、黄巾の乱の起った時期(184=霊帝光和7年の2月)とほぼ重なり、共立された卑弥呼は、三国志の曹操(曹操は、黄巾の乱で、潁(えい)川(せん)の黄巾賊を討っている)や公孫度(公孫度は、189年、董卓によって遼東太守に任命されている)と同時代人ということがはっきりする。
2.卑弥呼はどんな人だったのか
卑弥呼の宗教(鬼道)は、原始神道(本居宣長)とかシャーマニズム(1965井上光貞)とか言われていたが、私は、卑弥呼の鬼道は、後漢後期(2世紀後半)に中国で爆発的に流行った早期の道教であると考えたい。早期道教は、①民間巫術(ふじゅつ)②神仙信仰③道家(どうか)哲学(主に黄(こう)老(ろう)思想)を含んでいた。早期道教には、張魯(ちょうろ)の天師道(五斗米道)と張角の太平道があったが、時と所を考えると、卑弥呼の鬼道には、張角の大平道が持ち込まれたのではないかと思う。張角が太平道教団を創設し布教を始めたのが建寧年間(168~171)で、布教地域は渤海沿岸、黄河・長江の下流域であった。張角が黄巾の乱を開始したのが光和7年(184)2月で、乱がほぼ鎮圧されたのがその年の10月で、張角は死亡し太平道教団も解散された。
一方、張魯が、祖父が四(し)川(せん)で創設し父が死んだ後、一時他人(巫人(ふじん)の張(ちょう)修(しゅう))に奪われていた天師道教団(五斗米道教団)の権力を奪って漢中(益州≒四川省。現在の陝西省)に道教王国を樹立したのは、中平5年(188)で、曹操に降伏したのは215年であった。
卑弥呼が女王に共立された時期は、中平年間(184~189)で、彼女はその時点ですでに鬼道を修得して布教していたのであるから、既に成人年令に達していたと考えられる。したがって女王になる前の卑弥呼と関係があり得るのは、張角の太平道教団ということになる。
それでは卑弥呼はどのようにして早期道教を倭人に広めることができたのだろうか。私の推測であるが、卑弥呼は、太平道教団の宗教教育(巫女教育)を幼いころから受けていた女子で、聖職者の父母や弟それに宗族とともに布教のため倭国にやって来た中国人(渡来人)だったのではないか。彼女は、すぐに日本語を話すようになり、呪術(じゅじゅつ)を使って治療することで、倭人の上流階級の間でも絶大な人気を博したのではないか。
3.東大寺山古墳から発掘された中平紀年銘の大刀
 公孫氏から卑弥呼に贈られたと思われる中平の年号の入った大刀が、昭和37年(1962)、ヤマトの4世紀の古墳から発掘された。どう考えたらよいのだろうか。
4.倭国の社会と法
 卑弥呼の時代、倭国の社会には、「大人(たいじん)」「下戸(げこ)」「生(せい)口(こう)」「奴婢(ぬひ)」という階級が存在した。大人は支配階級で、あらゆる官職を独占した。下戸は、農業・手工業に従事し、租税を納め、兵役その他の労役に服した。奴婢は奴隷階級で、戦争捕虜と犯罪者に由来する。生口も奴隷階級であるが、皇帝に献上されていることから何らかの特殊技能を持つ者と考えられている。
 倭国には、不文(ふぶん)の「税法」と「刑法」が存在した。税法=租賦。租は田租、賦は人頭税である。刑法=その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸を滅ぼし、宗族に及ぼす。
5.倭国の大官
 倭人の諸国の首長たちは、後漢霊帝の中平年間に、卑弥呼を諸国連合(倭国)の王に共立した。倭国には、「大倭」、「大率」、「大夫」という大官が置かれた。
(1)大倭(有無(ゆうむ)を交易し、大倭を使(し)て之を監せしむ)
当時、まだ貨幣はなく、倭国の交易は、国際・国内ともに物々交換の段階にあった。当時、女王の統轄下にあった諸国はすべて交易市場を設置していたようである。女王は大倭に令して、租賦と交易のことを監督させていた。卑弥呼が名付けた「大倭」という官名は、(「卑狗」、「卑奴母離」といったヤマトコトバとは違う)中国語の官名と思われる。大倭は大和、太和で道教に由来する言葉で、道教の信仰者である卑弥呼が名付けたものと思われる。
(2)一大率(女王国自り以北には、特に一大率を置き、諸国を検察しむ)
 女王国より以北とは、狗邪韓国・対馬国・一大(壱岐)国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国の八カ国の領域を指す。女王は、この領域に、特別に、「大率」という官を任命し、これら諸国を監視し、好ましからぬ動向については監督権を行使したりした。諸国は、「大率」を非常に畏(おそ)れ憚(はばか)った。「大率」は伊都国に滞在していた。
「一大率」の三字が、諸国を検察する官名を表しているのではなく、「一人の大率」と理解するのがよいというのが通説になりつつある。中国古代の官名としての「大率」は、『墨子(ぼくし)』迎(げい)敵(てき)祠(し)の条に、「五歩に五長有り、十歩に什長有り、百歩に百長有り、旁に大率有り、中に大将有り」とあって、偏師(へんし)(全軍の内の一部の軍隊)を統率する将帥(しょうすい)が「大率」であった。
 卑弥呼は、倭国の役人の職名を、『墨子』に因んで、「大率」という名前にした。卑弥呼は、中国語で『墨子』が読め、意味するところを理解できたと思う。私は、このことをもってしても、卑弥呼は中国人(渡来人)であったのではないかと考える。 (3)大夫(①古(いにしえ)自(よ)り以来(このかた)、其の使、中国に詣(いた)るや、皆自ら大夫と称す ②倭の女王、大夫難升米等を遣わし)
「大夫」は、古来、倭国の外交関係を司る主要な政府機構であった。「大夫」も中国語である。
6.卑弥呼は魏の正朔(せいさく)(暦(こよみ))を使っている。
 魚豢(ぎょかん)の『魏略』に、「其の俗、正歳四節を知らず。但(ただ)、春耕秋収を計(はか)りて、年紀と為す」という文章がある。しかし、陳寿は、この文章をあえて『魏志』倭人伝に載せていない。そのことは裴松之(はいしょうし)の注から分かっている。陳寿は、卑弥呼が書く外交文書には、日付が入っていることを確認していると思う。
7.その他倭人の習俗など。以上
照葉樹林文化論を考える
―7月6日ゼミ紹介文:山腰直仁会員記―
照葉樹林文化論は、栽培植物学者中尾佐助により1966年初めて提唱され、その後その考えに賛同した文化人類学者佐々木高明等により議論が深まり、1970年代に世間にも知られるようになった一大仮説である。これにより、一時は教科書にも記載され、照葉樹林という専門用語が世間一般に広く知られるようになった。その文化論を要約すれば
(1) 照葉樹林文化論の対象地域は、ヒマラヤ山地の中腹から東方へ、ネパール・ブ-タン・インド/アッサム、更に東南アジア北部山地・中国/雲南・貴州高地・長江流域の江南山地を経て、西南日本に至る照葉樹林帯である。 (2) その文化は、雑穀・根菜型の焼き畑農耕、餅性食品・ナットウ・麹酒・茶等の食料の他、桑を食べない蚕・漆・竹細工・鵜飼や吊り壁と高床式家屋、更には歌垣・山の神信仰・天の羽衣その他の昔話や神話等多岐にわたる。 (3) 日本への伝来時期は実証出来ないものが多いが、漆は6000年前頃と考えられる(鳥浜貝塚遺跡出土 漆塗りの櫛)。
 しかしその後、稲作の起源が長江中下流域と確定するにつれ、中尾佐助が当初考えていた壮大な仮説は変更を迫られるようになった。照葉樹林文化に稲作文化を含めるかどうかは当初から議論があり、佐々木の主張により稲作文化は別個に考えるべきということになっていった。稲作はそれ自体大きな影響をもった文化であり、また稲作の起源も、当初はアッサム地方、その後雲南地方と考えられていたが、最終的に長江中下流域となり、しかも時代が紀元前5000年-7000年と古くなったからである。
 以下の分類で、その考えを紹介したい。
1 世界の生態気象区分と照葉樹林帯
 植物の植生を決定するのは、温度と乾湿度である。世界の生態気象区分から、照葉樹林帯がどのように位置づけられるのかを見る。
2 照葉樹林文化
 照葉樹林文化の発展段階は、(1)プレ農耕段階(2)雑穀栽培を主とした焼畑段階
(3)稲作が卓越する段階である。その間に存在した食文化や習俗を見る。
3 照葉樹林文化―日本における展開
 縄文時代の前期―中期頃に、東南アジアの照葉樹林文化が、また後期に焼畑文化が、西日本に展開してくる。これらの推移を、各地の遺跡や古い地層からの花粉分析により検証する。花粉分析により、森林の植生の交代や、焼畑の存在を示す雑草類の変化を知る。
4  照葉樹林文化と稲作農耕文化
 稲作の発祥地である長江中下流域は、照葉樹林帯に属するが、稲作の展開自体が独自であり、またその文化の影響力からみて、稲作文化は照葉樹林文化とは別に考えるという立場に立つ。稲作が何故、照葉樹林帯の北限にある長江流域で始まったのか。それは、世界的な気候変動とイネ科植物がもつ特性―栄養繁殖から種子繁殖への変化、そして温暖化による長江流域への人口集中という面から考える。このような考え方を紹介する。以上
多才で一徹な変り種、小野篁
―清野 敬三会員記―
◇小野篁ってどんな人◇
 小野篁(おののたかむら)というと、皆様はどんな人物を思い浮かべますか。百人一首に親しんだ人なら、「わたの原八十島かけて…」の作者と知っているでしょう。遣唐使の歴史を知っている人なら、上司の遣唐大使と大喧嘩して乗船を拒否した人、と言うかも知れません。また、クイズに凝っている人は、「子」の字を12個並べた「子子子・・・」を何と読むかという問題を、思い出すかも知れません。一方、妖怪話が好きな人は、彼が夜な夜な冥府で閻魔大王の補佐をして、死者の裁判をしていた姿を思い浮かべるでしょう。
篁は、多方面にわたって才能を発揮し、特に漢詩・和歌など文才に優れていたのと同時に有能な官吏でもあり、参議左大弁従三位まで進んでいます。しかし、自己を曲げない直情径行型で、その反骨心から反感や嫉妬も買うこともあり、「野篁」の号をもじって「野狂」とも呼ばれています。その一風変わった人物を追ってみたいと思います。
◇生い立ち◇
篁は、平安初期の延暦21年(802)、小野岑(みね)守(もり)の長男として生まれました。岑守は、嵯峨天皇の即位時に侍読(じとう)を勤めるほどの著名な漢学者で、参議に任じられています。小野氏は、粟田・柿本氏らと同じく和珥氏の同族で、先祖には遣隋使の小野妹子をはじめ、外交面で活躍した人物が目立ちます。
篁の事績については、『文徳天皇実録』仁寿2年(852)12月条に、かなり詳しい「薨伝」が載っています。篁は、陸奥守に任ぜられた父岑守に随って陸奥国で暮らしていた頃、弓馬に熱中し学業は疎かにしてしまいました。身長が6尺2寸もある偉丈夫で、武芸の方に夢中になってしまったようです。しかし、嵯峨天皇が、「碩学の岑守の子にして、どうして弓馬の士で終らむとするか。」と嘆いたのを聞いて、一念発起し勉学に励み、弘仁13年(822)エリート官僚の登竜門である文章生(もんじょうしょう)試(し)に合格しました。
その後は学才を認められ、大内記・蔵人などの官職を経て、さらに皇太子(恒貞親王)の教育係である東宮学士に抜擢されています。また、『令(りょう)義解(のぎげ)』の編集にも参画して、その序文を執筆しています。
◇遣唐使乗船を拒否◇
 承和元年(834)、遣唐副使に任ぜられました。遣唐使は大変な名誉であるとともに、遭難の確率が高く、生還が期しがたい危険な役目です。『続日本後記』によると、この時の遣唐使も、承和3年と4年の2回出航しますが、いずれも暴風雨に見舞われ、渡唐に失敗しています。
 唐風に憧れている嵯峨上皇は2度の失敗にも懲りず、承和5年(838)、3度目の渡航を命じました。ところが遣唐大使の藤原常嗣は、出発にあたり自分の乗る予定の第一船に水漏れ箇所が見つかったため、副使篁の第二船と交換することを主張しました。これに対し篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるのはけしからん、と持ち前の反骨心を起こし、病と称して乗船を拒否してしまいました。しかも、憤(いきどお)りのままに「西道の謡(うた)」という漢詩を作り、遣唐使を風刺しました。
これを読んだ嵯峨上皇は激怒し、律令を適用すれば絞首刑にあたるとしましたが、死一等を降し官位剥奪の上、隠岐島への流罪となりました。ここで、配所へ舟出する時に、京の妻に宛てて詠んだのが冒頭の歌です。
「わたの原 八十島かけて漕ぎ出ぬと 人には告げよ 海人の釣り舟」  1年半後、篁は罪を赦されて京に帰り、翌承和8年(841)に正五位下の本位に復帰しました。仁明天皇は「以前の汝を思い且つ文才を愛するが故に、優遇措置により特別に本爵に復する。」と詔しています。
◇篁の人となり◇
篁は、本位復帰後、刑部少輔から、蔵人頭・左中弁等々の要職を歴任し、承和14年(847)には参議に任ぜられ、最終官位は、左大弁・従三位に叙せられています。その間、文徳天皇が皇太子の時の東宮学士も勤めています。
官吏としての有能さもさることながら、権威に屈せず、自分の正しいと考えるところを何ものも畏れず、理路整然と直言した人物であったことを、さきの「薧伝」は伝えています。しかも、家は清貧そのもので大変な母親孝行であったこと、金銭には淡泊で俸給は友人に分け与えたことを特筆しています。当時の役人としては珍しい存在だったのでしょう。
妻は、藤原三守の娘です。三守は、藤原南家の重鎮でしかも右大臣です。一介の学生では、なかなか結婚の許しが貰えないところを、例の強引さで父親宛に嘆願書を送り付け、押し切ったようです。
「奉右大臣 学生(がくしょう)小野篁 誠惶誠恐謹言」で始まる難しい漢字を並べた文章が『本朝文粋』に残っています。その一部を読み下しで紹介しますと、「…傳エ承ル賢第ノ十二娘(ろう)、四徳雙(ならび)無ク、六行闕(か)ケズ。所謂君子ノ好仇(こうきゅう)(良い配偶者)、良人(りょうじん)ノ高媛ナリ。」と娘の資質を持ち上げ、「幸ニシテ願ワクバ府君ノ恩許ヲ蒙リ、同穴偕老ノ義ヲ共ニセサシメ給エ。宵(しょう)蛾(が)、燭ヲ拂(はら)ウノ迷イニ堪(た)エズ、敢エテ朝(ちょう)藿(かく)(粗末な食物)、曦(ぎ)(きれいな太陽)ニ向ウノ務ヲ切ス。篁、誠惶(せいこう)誠恐(せいきょう)、謹ンデ言(もう)ス。」と、結んでいます。この最愛の妻が亡くなったとき詠んだ歌が、『古今和歌集』所載の「泣く涙 雨と降らなむ 渡り川 水まさりなば 帰りくるがに」です。
 篁は、「養老令」の官撰注釈書である『令義解』の編纂に深く関与したことでも分るように、明法(みょうぼう)道(どう)つまり法律は得意の分野でした。権左中弁の職にあった時、法隆寺の僧善愷による訴訟事件をめぐって、私罪か公罪かの認定に関して法解釈上の大問題が起こりました。明法博士讃岐永直の見解に対して、篁は「時を傷む詩卅韻」を作り再考を望みました。結局、篁の律文解釈が人々を納得させ、告発された弁官が弾劾されています。
 一方、漢詩の才にも優れており、その詩風は白楽天に通ずるとまで称えられています。嵯峨天皇が、当時まだ流布していなかった白楽天の詩句「閉閣唯聞朝暮鼓。登楼空望往来船。」の空の字を遥に代えて篁に示したところ、「遥を空となさば、いよいよ良かるべし」と批評したという話が『江談抄』にあります。
◇逸話と伝説◇
篁には、多くの逸話や不思議な伝説が残っています。才能が多岐にわたり、しかも人並みはずれて優れていたため、それが人々の口にのぼっている間に、いつの間にかいろいろと話が作られていき、次第に神秘化されていったのでしょう。
『宇治拾遺物語』の「小野篁、広才の事」と題する逸話です。嵯峨天皇の御世、「無悪善」という落書がありました。天皇が、篁に読めと命じましたが応じず、更に強要されたため、「さがなくてよからん」(嵯峨天皇がいなければ良いのに)と読みました。天皇は「これが読めたのは、お前が書いたに違いない」と非難したので、篁は「どんな文章でも読めます」と弁明しました。そこで、天皇が出題したのが「子」を12個連ねた文字です。篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解き、事なきを得たということです。
この他、篁は、昼間は朝廷で官吏をし、夜は冥府で閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が、後世のいろいろな本に紹介されています。
『今昔物語集』の伝説です。篁が若い時、不始末を犯したのを、藤原良相(よしみ)が弁護してくれました。後日、篁が参議の頃、右大臣になっていた良相が重病になり、亡くなりました。良相が閻魔大王の前に出ると、篁が横に控えており「この大臣は正直で、良い人だ。」と弁護してくれたため、大王がそれを認め良相は生き返りました。良相の病が治り出仕した際、篁にお礼を言うと、他言しないようにと答えました。良相は、篁が普通の人ではなく、閻魔大王に仕える臣であると確信し、また人々もそれを知り、篁を怖じ恐れたということです。
『江談抄』にも同じような話があります。藤原冬嗣の孫の高藤が乱暴者で、篁の牛車の簾を破る事件が起こりました。篁が、冬嗣の家へ行き事情を話していますと、高藤が突然卒倒しました。篁がゆり動かすと、高藤は正気に戻り、篁に平伏しました。「気を失い閻魔大王の下へ行ったところ、篁が大王の隣に座っていたので平伏したのです。」と語ったとのことです。
要するに、篁は人智の及ばない異能の人として畏れられた為に、このような伝説が生まれたのでしょう。以上
国内・海外ツアー
1、秋の国内ツアーは 11月中旬、探訪予定地 遠江・駿河、日程 1泊2日又は2泊3日の予定。
2、本年海外ツアーは都合により取り止めとします。
来年訪問先:ベトナム・カンボジアを予定。
時期は2020年2月頃とします。
8月3日 ゼミ・テーマ(敬称略)
13:15~17:00
エステック情報ビル21階A会議室(新宿駅)
➀欠史八代について考える:鈴木 慧
②記紀にみえる神名と天皇名の意味:井上政行
7月13日 世 話 人 会 日 程
13:00~17:00
 機械振興会館6階-61会議室(神谷町駅)

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